2009年11月23日 (月)

フォト・プレミオ2009 中嶋太一写真展-龍の流れし夜-コニカミノルタプラザ ギャラリーA

主人公となるのは、モノレール、 千葉市を走る千葉モノレールです。

この千葉モノレールというのは 『懸垂型モノレールとして営業距離世界最長』とギネスに載っているとのことで、 つまり都市交通の要、市民の足として、 千葉都心部と周辺の住宅地を結んでいる路線ということになります。

作者はモノレールそのものに注目しているのではなく、 実際モノレールの車体は今回の作品のどこにも写っていません。

そのレールが都市の中を縫っていくさま、 蛇腹のような鋼鉄の筐体の連続が都市を切り裂いていくところに、 非日常的なものを感じて、 龍が流れていくさまに例えたというわけです。

すべてスロー・シャッターで撮られた夜景の写真です。 レールの下を通り過ぎる車両は露光時間の間に通りすぎてしまい、 一本の光の帯に省略されてしまっています。

印象的な写真があります。 深夜の住宅地の写真です。 きちんと区画整理された住宅地の交差点から、 遠く交差点まで見通すことができます。 人通りのない深夜、交差点の信号だけは赤く、 その周囲を染めています。 赤く染めようとしていのは何なのか? 交差点の向こう側にはモノレールの蛇腹がその住宅地を横切っています。 住宅街の風景としては確かに異様です。

わたしにとってモノレールとは、 上野動物園であったり、 向ヶ丘遊園だったり、 よみうりランドであったり、 羽田空港であったり、 大阪万博であったり、 今で言えばディズニー・ランドということになるのでしょうか。

空中を走り抜けることの疾走感、 レール一本の上に乗っている(あるいは支えられている)不安定な感じ、 それはそのまま、これから遊園地や動物園、さらに言えば未来に向かっていくという高揚感に連なっていくのです。

つまりモノレールとは日常の場所からハレの場所へわたしたちを導いてくれる 何かわくわくさせる交通機関であったのです。

ただ同時にわたしはそれが容易に崩れ去っていくことも知っています。 たとえば向ヶ丘遊園のモノレールが廃線となり、 レールが撤去されずに朽ちていくままに放置されていた光景も見ています。

本作品展の作者である中嶋氏は1978年生まれ。 彼より世代が上のわたしはモノレールに対する印象も異なっているかもしれません。 市民の足として現役バリバリで役立っていたとしても、 「朽ちてしまった未来」の残骸としか見えなくなっている私と、 作者のイメージとは通底するものがあると思います。

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2009年11月15日 (日)

桜木義隆写真展-醒都幻影-ニコンサロンbis

わたしがシャッターを始めて押した時に感じた、 ある種の違和感というのがあります。 それはシャッターを押した時にイメージしているものより、 得られる画像ははるかにその情報量が少なく感じることです。

ファインダを覗いていたときに見えていたはずのものが、 写真になるとみごとに抜け落ちているように思えたのです。

例えば、海外旅行の記念写真を見せられたりする時に 感じるもどかしさに共通するものだと思います。 この場合記念写真というのは当事者のイメージを記憶、 または喚起させるための道具に過ぎず、 一方的に写真の風景について語られても、 同じイメージを共有していなければ、 曖昧に相槌を打つ以外にありません。

写真に多くを求め過ぎているかもしれませんが、 いくらシャッターを押しても得られるのは部分でしかなく、 部分をいくら重ね合わせても全体には至らないのではないか、 というもどかしさを感じます。

わたしは何故かこの写真展を見ながらそのことを思い出していました。 写真というものは全体を写し取るのは不得意なのかもしれず、 精々その断片を示す以外にない、 であればその断片をとことん写してみる、 というのが作者の意図だと思います。

わたしの好みでいうと、 マテリアルのテクスチャー感がある写真は嫌いではありません。 アスファルトやコンクリート、 粗く塗られたペンキの刷毛痕、 水面に写りこむ街の明かり、 顕微鏡的美しさと言っても良い、 文様の美しさがあります。

ただこれらの作品からは、 テクスチャーから伝わる手触り感といったものがありません。 コンクリート表面の写真から、 そのザラザラとした感触があるはずですが、 それが伝わってきません。

おそらくデジタルカメラで撮影されたと思われます。 その影響は無視できないと思います。 電子信号に変換され、完璧に光をマネジメントした結果表現されるもの、 破綻のない表現ゆえに突き抜けたものがないゆえに、 視覚以外に訴えるものがないのでしょうか。

もちろん銀塩写真で粗い粒子のモノクロ写真であれば 伝わるものが、ここでは伝わらず、 だからデジタルが駄目だと言う気はありません。

おそらくデジタルは今後もますます進歩していくでしょうし、 デジタル表現がこのようなもどかしさを抱えたままであったのならば、 もどかしい現代を写すには一番都合がいいかもしれないのです。

作者はこの世の中は不可視の世界に突入したと言います。 わたしに言わせるとこの世の中は手触りのない世界に突入した、 とも言えるのではないでしょうか。

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2009年10月 4日 (日)

小野隆行写真展-青の肖像-新宿ニコンサロン

私自身繁華街を歩いていて、 すれ違ういわゆるホームレスの人達の「面構え」に思わず見惚れてしまうことがあります。

私のようなサラリーマンとは言えども板場一枚下は地獄、 半年先は彼らのような生活をしている可能性もゼロではないわけではないのですが、 私も彼らのような生活をすれば「面構え」になるのか、 また逆に彼らが普通の格好をしたら目立たなくなって、街を歩く普通の人達に埋もれてしまうのか、 何か相容れないものを感じていたのは事実です。

この作者もそこに注目したのでしょう。 街にいるホームレスたちのポートレートを撮り続けた写真展です。

会場には彼らの全身写真と、顔のクローズアップの写真が半分ずつ展示されていています。 迫力のあるのは後者のクローズアップでしょう。 ただ私のイメージするホームレスよりは登場する人たちはこざっぱりしていて、 本片手のインテリっぽい人もいあるし、 空き缶のつまったポリ袋と一緒に携帯電話持っている人もいます。

彼らの「面構え」は確かに現代社会が失ったある種の原初的なバイタリティー、 つまり生肉を貪り、木の実を齧って今日一日の命を繋ぐことが最大の目的だった 太古の昔の我々の「面構え」も感じさせます。

逆に言えば、現代社会と言うのは、 彼らのような原始的バイタリティーを 疎外し排除することによって成り立つというのではないか、 とすら思わせる説得力がこの写真にはあります。

私は若い世代の写真家が老人たちのポートレート写真を観て、 彼らが老人達を撮るのは、 癒しと希望の意味があるのではないかと書いてきました。

現代社会というのは不快なものを極力排除された殺菌化された社会であり、 そこの住人は壊れものとして扱われ、そして扱ってきたわけで、 その社会にいる人間はあまりに簡単に壊れてしまうように見えます。 いわばアウトサイダーとして激烈な人生を送ってきた彼らの顔に刻まれた皺にこそ、 若い世代のいわく言い難い不安感や、閉塞感についての解答があるのではないかと、 考えているように思えるのです。

ただしこの作家より上の世代である私の感じ方は違ってきます。 ある種スタイリシュに彼らの表情を写し出してしまうと、 私としては行き場を失なってしまうような、 この写真で掬い取ることのできなかった世界がぽっかりと見えてくるようで、 更なる深みに陥ってしまうような気がします。 これは単なる私の思い込みかもしれませんが……

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2009年9月23日 (水)

斎藤和男写真展-東京ロンド-新宿ニコンサロンbis

モノクロの銀塩写真による作品集です。 被写体として選ばれたのは東京の行き交う人たちです。 犬の散歩をする人も、 お祭りに行く途中の人も、 楽器の練習をする人も、 井戸端会議をしている人も、 仕事をしている人も、 普通の人たちの普通の表情があります。

モノクロ写真ゆえ、ということもあり、 なかなか撮られた時代というのがわかりにくいのですが、 背景から察してそれほど昔の写真ではないようです。

私自身、街角のスナップ写真というものを見るとき、 何故かしら息を凝らして見てしまうところがあります。 それは被写体となった人たちをどのような関係のもとに撮影したのか、 盗み撮りなのか、それとも了承の上に撮ったのか、 シャッターを押した後に何で撮ったのか、と揉めたりしないのか、 余計な心配と言えば余計な心配なのですが、 とにかく被写体となった人の視線をまず見てしまうところがあります。

シャッターを押す一瞬で、 被写体となる人の関係をうまく掴んでしまうことができる能力、 そんなものが写真家に必要な能力のように思えます。 このあたりがこの作者は絶妙であり、 視線の合っている人の写真もあるし、 隠し撮りのような写真もあり、 それらの写真の組み合わせが巧みと言えるでしょう。 そしてそこに写る人たちの表情が柔和であるのは、 この作者自身の人柄の投影でもあります。

ふらりと散歩がてら、 気になった風景や人たちを次々とスナップしていく、 というのは写真を撮るひとつの醍醐味であるわけで、 一枚一枚現像まで含めて作品に仕上げていく、 写真を観る楽しみよりも、撮る楽しみが勝っている類の写真です。

そして撮る楽しみ、 現像する楽しみが写真一枚一枚に溢れ出ているかのように、 観るものも楽しめる、 その意味では写真の王道を行く作品と言えます。

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2009年9月19日 (土)

小林のりお写真展-アウト・オブ・アガルタ-新宿ニコンサロン

アガルタという言葉は私自身聞き覚えがあって、 一体何だっけと思って会場を訪れたのですが、 会場に小さく流れるミュートの効いたトランペット、 聞き間違えようもありません、 マイルス・デイビスです。 それで思い出しました。 アガルタというのはマイルス・テイビスのアルバムのタイトルで使われていた言葉です。

そのマイルス・テイビスが電子音楽を取り入れたように、 この作家もデジタル技術を取り入れたのでしょうか。 すべてデジタル撮影でアクリル板にプリントアウトされた作品に仕上げています。

被写体として選らばれたのは、 農地なのか、荒地なのか、 時代がもう少しよくなれば、 美しい場所に整備されなおすのか、 それともより荒廃していくのか、 雑然としながらもたくましく生きる住人の生活の場なのか、 朽ちるままな廃屋寸前でもなすすべのない人達の住処なのか、まったく判然としない、 ちょっと街中から離れれば普通に広がる風景です。

デジタルな表現というのは容赦がありません。 その表現に曖昧さというものはなく、 抜けるような色彩ゆえに一切の陰影を許さないように見えます。 その表現をつきつめた所にどんな表現が広がるのか、 その実験がここにあるように思えます。

打ち捨てられた傷だらけのダッチ・ワイフを写した写真があります。 量子化され電気信号に変換された光の中では、 妙に誇張された女性器の造形に、 意味を見い出しようがありません。

駅のベンチの写真を撮ったとしても、 色々な気持ちでそこに座った無数の人たちの生活があるはずで、 そのベンチの写真一枚で、そこに存在したという歴史というものが写り込んできても おかしくはないはずです。

しかしながら殺菌されたようなデジタルな光の中で写し出された世界は、 言い方が悪いかもしれませんが、そこに単に存在しただけだという、 実も蓋もない姿を晒してしまっています。

青く塗られたトタン板はあくまで青く、コカコーラの自動販売機はあくまで赤いという、 原色の映像世界は私たちの心象風景と屹立するでしょう。 それだけではありません。 私たちの記憶以上、さらに言ってしまえばその存在自体を 超えてしまうほどにデジタル技術はその表現世界を獲得してしまったように思えてしまいます。 そしてそれをどう捉えたらいいのか、 戸惑いを覚えてしまうのも正直な感想でもあります。

伝統的な四ビートを捨て、 電子楽器を多用したロックのリズムを取り入れたマイルス・デイビスのように、 そしてそれを新しい音楽だと聞き入っていた若いころの私のように、 デジタルな世界に身を委ねなければならないでしょう。

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2009年9月 5日 (土)

角尾 敦志写真展-GALACTICA-エプソン イメージングギャラリー エプサイト2

グローバル化が進む世界でその風景はどのように姿を変えていくのか、 その疑問の尖端に旅する写真家は立っているように思えます。

世界各国で、普通の人が普通に生活する、 どこにでもある場所の何気ない風景ガここで問題となります。 どこにでもあるような看板や、 高層マンションやショッピング・モールがその風景を侵食し始めている、そんな現実の中で、 世界は均質化に進むのか、あるいはそれはあくまで表層的な事象であり、 人々の表情や店先に並ぶ商品の微妙な差異が存在するように、 地域の特異性は生き残るのか、 それは予想のつきにくい問題であると言えます。

問題を複雑なものにするのは、 風景を撮る写真家の視点にもより、 その世界観はまったく違ってしまうということにあります。

世界は全く同じであるという視点に立てば、 そのような作品ができてしまうし、 またその正反対のことも可能です。

そしてその立場を肯定するのか否定的立場なのかによっても、 変ってきます。

つまりその世界の風景は、 写真を撮るという行為において、角尾 敦志写真展-GALACTICA-エプソン イメージングギャラリー エプサイト2

グローバル化が進む世界でその風景はどのように姿を変えていくのか、 その疑問の尖端に旅する写真家は立っているように思えます。

世界各国で、普通の人が普通に生活する、 どこにでもある場所の何気ない風景ガここで問題となります。 どこにでもあるような看板や、 高層マンションやショッピング・モールがその風景を侵食し始めている、そんな現実の中で、 世界は均質化に進むのか、あるいはそれはあくまで表層的な事象であり、 人々の表情や店先に並ぶ商品の微妙な差異が存在するように、 地域の特異性は生き残るのか、 それは予想のつきにくい問題であると言えます。

問題を複雑なものにするのは、 風景を撮る写真家の視点にもより、 その世界観はまったく違ってしまうということにあります。

世界は全く同じであるという視点に立てば、 そのような作品ができてしまうし、 またその正反対のことも可能です。

そしてその立場を肯定するのか否定的立場なのかによっても、 変ってきます。

つまりその世界の風景は、 写真を撮るという行為において、 いくつものフィルター越しにその世界を見ざるをえず、 その姿を隠されてしまいます。

「世界を赤く染め上げたらどうなるのか」 作者はそんなことに思いつき、 台湾を香港をそしてニューヨークを旅します。

この実験の結果はどうだったでしょうか、 アジアの風景とニューヨークの風景と、 赤のフィルターを通じて覩る世界には明らかに差異があるように見えます。 ひらたく言ってしまうと、 赤の似合うのはやはりアジア圏の国々であり、 ニューヨークはそぐわない感じがします。

何故赤なのか、という疑問はここではどうでもいいことなのかもしれません。 それは任意に選ばれた一つの色であるということ、 単一の色ということは一つの視点であるということの作者の一つの明示的な姿勢です。 画像に記録するという行為の背景にある、 意識的にしろ、無意識にしろ、 何かしらの視点によって「毒」されているということを、 我々写真を観るものにも、 そして何よりも写真を撮る作者自身にも補助線を示すという意味でも 果敢な実験ということだと思います。

いくつものフィルター越しにその世界を見ざるをえず、 その姿を隠されてしまいます。

「世界を赤く染め上げたらどうなるのか」 作者はそんなことに思いつき、 台湾を香港をそしてニューヨークを旅します。

この実験の結果はどうだったでしょうか、 アジアの風景とニューヨークの風景と、 赤のフィルターを通じて覩る世界には明らかに差異があるように見えます。 ひらたく言ってしまうと、 赤の似合うのはやはりアジア圏の国々であり、 ニューヨークはそぐわない感じがします。

何故赤なのか、という疑問はここではどうでもいいことなのかもしれません。 それは任意に選ばれた一つの色であるということ、 単一の色ということは一つの視点であるということの作者の一つの明示的な姿勢です。 画像に記録するという行為の背景にある、 意識的にしろ、無意識にしろ、 何かしらの視点によって「毒」されているということを、 我々写真を観るものにも、 そして何よりも写真を撮る作者自身にも補助線を示すという意味でも 果敢な実験ということだと思います。

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2009年8月29日 (土)

金井紀光写真展-この町にて-コニカミノルタギャラリーA

静岡の街を1980年代から撮りためた写真展です。写真は全てモノクロで銀塩写真です。何か新しい商品を発売しようとするとき、テスト販売で選ばれるのが静岡ということも聞いたこともあります。新幹線で行き来するような類の(私のような)人には静岡というのは通り過ぎるだけのところであり、その印象というのも希薄なのかもしれません。たぶん日本のどこにでもある風景ということであれば、静岡というのはその平均的な風景であるということになります。

写真はほぼ二十年に渡るその街並、およびそこの人達の写真です。作者自身、あじわいがって好きだったという街角のパン屋が二代目になり、ビルに建て替え中であるとか、ホームレスの女性は昔色っぽい仕事をして、話かけると誘ってるとか、風俗店の下働きのおじさんだと思っていたら、実は札束かかえている人(社長さん?)だったとか、おでんやの名前は、開店した時生まれた子の名前と同じで、その娘も今は四十になったとか、登場人物のエピソードについてのキャプションが手書きで添えられています。

被写体となった人たちとの交流があり、等身大の身の回りの人々、風景を何十年にもわたり、モノクロ、銀塩写真という変わらぬ手法で撮り続けるというということ、それこそが写真というもののかけがいのない価値ではないかと思ったりします。

一枚の写真では何も伝わらないかもしれないけれど、年代を越えて並べられたときに生じてくる一つの重みがあります。ドッグ・イヤーなんて言葉がありましたが、二十年、三十年という時間は、劇的に変ったはずであり、今後もさらに激しい変化の嵐に放り込まれると言い立てられています。テレビや新聞や雑誌はいつでもそんな論調でしょう。

それを読む側もついついそれに乗せられて、そうかな、そんな風かなと思い込まされてしまっています。その変化についていけるかな、たぶんついていけないな、疲れるなというのが現代だと思います。

でもこのようにな何気ない街角写真のクロニクルを見れば、激動の時代にも変わらない何かがあるということをわからせてくれます。センセーショナルではないという意味で、語られなかったわけではないけれど、語るに零れてしまう、普通の街の、普通の人々の息使いを掬い取ってくれるこれらの写真は、何か観る者をほっとさせてくれます。

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2009年8月23日 (日)

勝田尚哉写真展-築く-コニカミノルタギャラリーC

都会は無数のパブリック・スペースが存在していますが、少なくとも同数のプライベート・スペースが存在することになります。そしてパブリック・スペースとプライベート・スペースの面積を比べるとしたらプライベート・スペースが圧倒的に多いと思われます。都会の中を自由に行き来できるようで、実際に立ち入りができる所など数パーセントもないでしょう。

立ち入りが禁止される理由は様々あります。単純に公人・私人を問わずプライベート・スペースだからという理由もあるだろうし、保安上の問題というのもあるでしょう。

そして普段一般の人が立ち入れないという、それだけの理由で、もの珍しさ、好奇心以上に特別な意味を持ってきます。

立入のできるエリアは実は限られているという意味では、東京も伊勢神宮もまったく同じ構造を持っていると言えるかもしれません。

今回の写真展は普通ならば一般の人が立ち入りが拒否される空間の一つ、工事現場を撮った作品展です。

薄暗い半地下の空間の中で、作業用の電灯が篝火のように、錆びた鉄骨と剥き出しの地盤が照らされるその場所は、胎内に潜り込んだと錯覚させる、エロチシズムすらただよう神々しさが漂っています。

この空間は誰に支配されているのか? ここは厳密に構造計算された力学的な空間であり、この建造物が建設することにより享受できる高度な経済的な空間です。つまり科学的合理性という名のもとに君臨している、技術と経済というふたつの現代の「神」がそこに降り立つ祝祭の場です。

作者は深く現場に入り込んで撮影しています。どのような関係でこのような場所を撮影できたのか、そんな疑問がありましたが、それもそのはず、作者は長く建築会社に勤務されていて、担当となった広報の仕事で建築写真を始めたとのことです。

完成してしまえば類型的としか思えない建築物にしかならないかもしれません。それでもパネルに囲われ、人の目から隔絶された更地の中で、杭が打たれ、梁が掛けられた瞬間、そこが聖なる場所、現代の禁足地となり得るということを明らかにしたという意味でも、極めて美しい写真です。

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2009年8月14日 (金)

大山高写真展-Freezing at moment-新宿ニコンサロン

東京を舞台に行き交う人々を撮りためた写真集です。被写体となっているのはいわゆる市井の人という表現がピッタリでしょう。東京近郊、私鉄沿線の駅にいるような地味な感じの人が多いなと思っていたら、銀座や渋谷の見慣れた繁華街の写真もあり、その風景が何か変だなと思っていたら、それもそのはず、撮影されたのが1980年から1995年ということ、なるほどと納得しました。

新しくリプリントされた結果かもしれませんが、写真そのものに古さは感じさせません。もっとも二十年という歴史は私の年代の人間にとってはあっと言うまで、現代との違いはわずかしか感じられませんが、若い人が観たとしたら、登場する人たちのファッションや髪型を含めて、隔世の感を抱くかもしれません。

私自身の記憶で言えば、1980年から90年代とは、女性の総合職が採用され、男に伍してバリバリ働く女性が登場してきた時期に重なるように記憶しています。

それを象徴するかの写真があります。レザーのタイトスカート、小脇にショルダーバックを抱え、胸元で暴れるペンダントを手で抑えながら、商店街をハイヒールで疾走する女性の写真です。

あの頃、本当に女性が眩しく見えたのは1980年という時代だったのか、それともあの当時、バブルを経て失われた十年、私自身何か疲れきったような感じしか残らない私自身の問題かは判然としませんが……

組写真になっているある作品が印象的です。左側の写真はハッとするほど清楚で美しい女子高生、後ろから呼び止めたのでしょうか半身になってレンズを見つめています。右側の写真は児童公園にあるコンクリートの遊具、それは小山のように盛られていてトンネルが掘られています。そのトンネルの形が象徴的であり、性的な暗喩として、女子高生の写真と並べられているとしか考えられません。まさしくこの写真が撮られた二十年前、作者も二十代だったとのことです。

何度もここで書いていることですがモノクロ写真というのは、例えば色のついた夢を見ることが少ないように、私達の記憶の喪失と、シンクロナイズするところがあります。モノクロ写真の写真家は写真の中から何かをこそげ落とし、何かを残します。だから二十年前、街行く女性たちをスナップしていた作者の、ある種ギラギラさせていたものも、時代を経て優しく残してくれるように思えます。

多分私が一番知りたいのはこの作家(恐らく現在は40才代の男として)が今も二十年前と同じくスナップ写真を撮り続けているのかということ、そしてさらに二十年後どのようにそれがみえるのかということです。

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2009年7月25日 (土)

刑部信人-comic FOTO PREMIO-コニカミノルトプラザ ギャラリーA

写真について文章で説明するには、時として虚しい気になることがありますが、今回の作品展の写真は意味があるかも知れません。(ただし私の拙い文章力で、作者の意図が伝えられるかというとこれは問題かも知れませんが)

渋谷駅ガード下の写真があります。一台のパトカーが停まっています。両側のドアが開け放たれており、そこに数人の警官が殺到しています。何かがあったに違いないのですが、それは分かりません。そしてそこに集まった警官たちのすべて決定的に肝心なことを見逃しているように思えます。パトカーの前方道路脇は生垣になっており、木の脇から白い布で頬冠りした男が様子をうかがっていて、明らかにこの男が怪しい感じです。

次に競馬場での写真です。そこは芝生の広場が広がっており、うらららかな日思い思いに日向ぼっこをしているようです。写真が捕らえたのは芝生に寝転んだ一人の男。一瞬びっくりさせられるのはその男の首がないということです。でもよく見るとその男は首を両肩の間に埋めるようにして居眠りしているだけです。だがその姿はうなだれているようにも見え、場所が場所だけに競馬で大損しているのではないかと考えたりします。ただ男の前には新聞が広げられているのですが、それは普通の新聞であり、ギャンブルに来たわけもなく、ただ日向ぼっこに来たついでに居眠りしてしまっただけのようです。

とあるテーマパークの写真も笑わせます。時代劇をテーマにしているのでしょうか、観客もまばらで休憩所にいる客も多分この程度だろうと、どこかつまらなそうにしています。だが彼らが全く気が付いていないところ、つまり彼らの頭上には二本のロープが張られていて、そこを忍者姿をした男がロープを渡っています。

つまりこの作者は明確です。その写真の構図の中、切り取られた一瞬、ただレンズを向けたその構図だけで浮かび上がる笑いです。実を言うとこのような光景は日常にたくさん潜んでいるかもしれないのですが、そのほとんどは気がつきませんし、気が付いても忘れてしまうものでしょう。一瞬を捕らえるということで、成立する世界というのは極めて写真的であり、一つの威力と言えるでしょう。

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2009年7月19日 (日)

王子直紀写真展-牛島-新宿ニコンサロン

鹿児島県鹿児島郡十島村悪石島。本作品展の「牛島」とはこの島と考えて間違いなさそうです。屋久島と奄美大島の間にあるトカラ列島に浮かぶ南国の小さな島で、ポゼ祭りという奇祭が有名で、7月22日、皆既日食の観測に絶好の地であり、テレビクルーを始め島は今まで訪れたことのない人数を迎えるために準備が大変とのことです。

ギャラリーには作品に関する紹介文や作者の略歴が何もないので、写真に写ったものから探さなければなりません。ただ作品の中に「悪石島小・中学校」の校門の写真があるので、そこを探すのは難しいことではありません(ちなみにこの悪石島小中学校のブログが充実していて、日食観測前の様子が描かれています)

写真は全てモノクロです。辺境の島を訪れて、普通に感じるだろう南国の自然の美しさ、豊かさ、そこに住む人達の素朴で人懐こい笑顔、なんてものには明らかに背を向けているです。磯にはいかにも悪石島の由来かと思わせる軽石のようにボツボツ穴のあいた石が転がり、亜熱帯の植物が村を浸食するように迫っているように見える景色です。少なくとも当地の観光協会から推薦が得られるような写真ではありません(もっともそんな写真展であれば私自身あまり食指が動きませんが)。

そこにあるのはどちらかというと濃密な人々の生活の匂いです。重機を動かし、家を建て、裏山の崖の補修をし、墓を掃除する、そんな人々の暮らしです。そんな村の風景で黒牛がいます。そのなんとなく不機嫌そうな佇まいが目を引きます。

作者の視点がなんとなく奇妙です。窮屈という訳ではなく、なんとなく限定されているような、作者自身どのような方法論で作品に接しようとしているのかちょっとわかりません。島の風景をある程度距離を置いてスナップしているわけでもないし、村人の中に入り込んだルポルタージュ的な視点でもない、ちょうどその中間という感じです。それが中途半端とは言いませんが、その立ち位置にある種のもどかしさを感じてしまうというのが私の率直な感想です。

結局ニコンサロンのサイトにある紹介文を参考にせざるを得ませんでした。作者はどちらかというと都市の写真を得意としていること、そして八十ミリという”中途半端な”レンズ一本を持ち込んで島に乗り込んだということ。村の人達の仕事を手伝ったりしながら写真を撮りためたということ。そして乗り込んだ島も悪石島ではなく同じトカラ列島の平島であること。そんなことが書いてあります。

つまりこの作家の立ち位置という問題だと思います。都会という存在はある意味無防備で、レンズさえ向ければ被写体は向こう側から飛び込んでくるのでしょう。都会では充分と言える八十ミリレンズも辺境の島では息苦しさすら感じてしまう画角の狭さとなります。しかしながら時代を写すために共通の視点も必要であることも事実であり、都会を写す方法論として確立したその手法がどこまで通用するのか、その実験のための苦闘の記録と言えるでしょう。

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2009年7月12日 (日)

金瀬胖写真展-千葉 銀色の街-コニカミノルタプラザ ギャラリーA

ここ数年の千葉の風景を銀塩フィルムを使ったモノクロの写真です。千葉と言っても作者が住む習志野から船橋、富津あたり、撮影されたのは古くて2000年、多くは去年、一昨年あたりに撮られています。

この写真の舞台となるJR津田沼駅あたり、ユザワヤのビルの裏側にある畑の風景は私にもなじみがあるものです。

作品を一通り見て浮かび上がってくる感想は、日本の街並みというのは、この数年で酷く傷ついてしまったのだなぁ ということです。

その思いを強く持った写真があります。たぶん私鉄沿線の駅、急行が停まるかどうかの駅の風景です。それほど広くはないロータリー乗用車が一台を除いてはがらんとしていて、アスファルトのひび割れが痛々しく広がっています。ロータリーの真ん中にはクリスマスツリーがあり、夜になればそれなりに綺麗に輝くのでしょうが、昼間ではわびしげです。駅前広場を囲む建物も古びて見え、「エイブル」という不動産屋の看板でかろうじてこれが2000年代の写真であることが察せられ、それがなければ80年代と言われても分からないでしょう。

言い悪いとして別にしても、おそらくこの十数年で都会の風景は劇的に様変わりしているはずと思いこんでいたのです。ところがこの一枚の写真はある意味驚きでした。

非効率的、老朽化あるいは単に古くさいとか、どんな理由はわかりませんが、その時代で否定された風景を塗り固めていたものが、この数年でほろりとはげ落ちて昔の姿が露呈してきている、そんな印象です。

この作品の舞台となった一帯は短期間で二種類の荒波を受けています。一つはバブル期を挟んで断続的に続く開発による破壊、二つ目はバブル崩壊や昨今の不況による衰退。おそらく時間をおかないで破壊と衰退の過程を繰り返した街は、ノスタルジーなど抱きようのない痛ましさだけが残されています。

作者の言葉を引用すれば、「消滅の際にあるものが酸化した銀色の結晶のように見える」とのことです。これは即ち銀塩写真のことです。うっすらと皮膜し、堆積していく見えない錆のようなものを、乳剤に潜ませた銀粒子一つ一つに呼応させ、X線写真のようにその街の痛みを結像させていく、この作者にとって作品とはその過程に他なりません。

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2009年7月 5日 (日)

津乗健太写真展-楽しくなさそうにはしていない猫-船橋競馬場の猫たち-コニカミノルタプラザギャラリーA

作者は現在船橋競馬場の厩舎員として働いているとのことです。写真家志望の若い男性がどんな経緯で厩舎に勤めるようになったのかは不明です。ただ今回と同名の写真展を過去同じギャラリーで開いているそうで、最初は汚くて臭くて嫌だと思っていた厩舎暮らしが、今ではそれなりに愛着が湧いて来たということが挨拶文に書かれています。

厩舎という閉ざされた不思議な世界の風景が最初に興味を引きます。厩舎と聞いて、閉鎖的で旧態然としていて、仕事だって恐らく単調な肉体労働の連続で、よっぽどの馬好きでなければ勤まらないだろうなということが、私の中のイメージとして浮かんできます。

そんなイメージを半ば裏切らないような風景が広がっています。ちょっと前に流行った昭和レトロの世界に近いのかも知れません。厩舎員の宿舎なのでしょうか、トタン屋根の二階建ての家は普通に民家のようにしか見えず、二階のベランダには洗濯物が干してあったりします。ただ生活感が漂う普通の家と違うのは、その家の壁に区画を示す英数字が大書してあること、そして家の目の前の道が、アスファルトの道ではなく、未舗装のダートであるということです。

そこにいる猫は飼い猫なのか、馬の餌のおこぼれを求めて集まってくる野良猫なのかは分かりません。人に懐いているのかそうでないのか、厩舎の人間も猫たちをかわいがっているのか、それとも害悪を厩舎に与えることがないということで放置しているのかがわかりません。その猫と人間のないようであるような距離感が、妙な懐かしさを呼び起こします。

そして猫の後ろ姿を写す作者の視点は、まさに猫の視点はと言っていいでしょう。厩舎という社会に自らの存在をそれなりに認められてはいるだろうけれど、それでもまだ部外者としての違和感は拭いきれない、そんな立場の作者の視線と重なります。そしてその視点は少しずつ写真家の視点に近づいている、という作者自身の手応えが伝わってきます。「楽しくなさそうにはしていない」というのはまさしく作者自身です。

個人的な嗜好を言わせて貰うと、私は猫とか犬とかを被写体とした写真展というのは苦手です。ですからギャラリーのある高野ビルの入り口で写真展の題名を見た時、正直あまり食指が動きませんでした。ただ私が想像していたような「猫可愛がり」の写真ではないことは確かです。

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2009年6月28日 (日)

林秀煥写真展-Picturesque-juna21新宿ニコンサロン

風景写真です。舞台となるのは郊外の住宅地であったり、駅前商店街の一角だったり、何気ない都会の風景を撮っています。

ただシャッターを切ると同時に激しくカメラを動かしているために風景は歪み、ブレています。そんな奇妙な風景写真です。

シャッターを押すという行為はかつては呪術的な意味を持っていたはずでした。瞬間に時間が切り取られ、そこから結像するものは現実であって現実ではない、という感覚は写真が発明されてからどんなにその表現の写実性が上がったとしても、人間の中に刷り込まれているように思えます。

写真家はその非現実性を意識的にあるいは無意識的に利用してきたように思えます。そのイメージを現実と偽った詐術的な行為が歴史の中でも半ば公然と行われていて、写真家がまったく無罪とも言い切れないはずです。

さらにテクノロジーが進歩してきて写真という呪術がデジタルという悪魔に飲み込まれてしまっている現在において、その記録媒体としても、芸術作品としてもその存在が危うくなってしまうのではないかという危機感もあるはずです。

カメラ付きの機能のない携帯電話を探すことが難しいぐらいのご時世ですから、沢山の映像が間単に得られ、かつデジタル処理を容易に行える現在、そこに映し出される映像に何の意味を持ちえるのか? そんな根源的な問題が写真家の中に湧いても不思議ではありません。

この作家の手法は明らかです。つまり精度を持ったはずのカメラから得られるその映像のその精度の否定です。

そのカメラの動かし方は色々で、単純に流れるようなブレ方もあれば、渦を巻いているようなブレ方もあります。何かが歪んだ形で残り、それ以外をブレさせるという手法は、たぶん職人的な技巧が要求させられるではないかと思ったりします。

ただ作品は単純にブレ方の美しさを狙ったというわけではありません。テクノロジーの完全無欠な完成としてのカメラから綻びを見つけ出し、そこに作品としての息吹を見いだそうという作者自身の果敢な取り組みにも思えるし、さらに言えば、そんなテクノロジーで得られてしまう映像など消し去ってしまえ、というある種の衝動を感じてしまうのです。

作者はソウル出身とのこと。偶然かもしれませんが、最近私は韓国系、中国系の作家を良く見ているような気がします。ある種の情念を何気なく写真の中に潜ませているといった手法に、彼らの中に共通点があるように思えたりします。

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2009年6月14日 (日)

Jui PHOTO-EXHIBITION-CAOSMOS カオスモス-新宿ニコンサロン

モノクロプリントが美しい写真です。中国生まれで日本で活躍する女性作家の作品展です。都内某所のコスモス園で撮影したとのこと、アクリル板に焼き付けた写真と紙焼きの写真が半数づつ展示されています。コスモス園に訪れる人たちを見つめた写真と、枯れ行くコスモスを凝視する写真が半分づつあります。

コスモスという花は桜と比べてどうしても見劣りがしてしまうのは、散り際の見事さというのがなくて、同じ畑の中でも、無惨に萎れていく姿を晒してしまうからだと思います。どちらかというとついついそんな萎れた花についつい目が行ってしまったりします。

そんなコスモス畑を被写体として選んだ、この作家の視点が極めてユニークです。花畑に迷い込んでしまった小動物か、あるいは誰にも気がつかれないまま死を迎えつつある行き倒れた人か、どちらかです。明らかに花畑の中に半ば埋もれてそこから見上げた時に見える風景です。

モノクロ写真と言う「漂白」された世界においては、咲き誇っている花も、枯れた花もその違いが希薄になります。敢えていえば、その造形の複雑さ、奇妙さにおいて枯れた花の方が惹かれてしまうし、そこに集う人たちも、美しさに訪れたというより、グロテスクな見世物の見物人に見えなくもありません。

群生した花が一斉に花開くその一瞬は、生命の絶頂でありますが、同時に枯れていく運命を予感させるわけで、その生と死の循環の変わり目の祝祭の中での作者自身の視線は、どこか置き去りにされた感じ、虚ろさを感じさせます。

その虚ろさは、コスモス園に訪れる人たちのある種の無邪気さからでも、天に向かって花弁を広げていたその花と養分も尽きて茎を折るようにしてうなだれる花弁が織りなす幾何学模様の不思議さにも現れてきます。

季節と共に生と死を繰り返すその存在に比べて、「人間の個」という生物種は絶望的に非循環であるということ、朽ちて行くことに対して再生することは絶対にあり得ないという、当たり前でいて認めたくない残酷な事実、それがコスモス園に潜んでいます。

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2009年5月31日 (日)

宮崎 豊写真展展-A Landscape Outside The Window-新宿ニコンサロン

ピンホールカメラによる作品です。ピンホールカメラのマニアがいて、専門とする写真家がいることは話に聞いていましたし、専門のサイトがあることも知っていました。私自身写真そのものを見るのは生まれて初めてです。なるほど、独特な味わいのある写真だなと思いました。

この写真の特長を挙げると二点なのでしょうか。ピンホールゆえに絶対的光量不足は避けることができず、それを露光時間で補うわけです。そのために風にそよぐ草はぼけてしまいます。しかもレンズという光学的処理がないゆえに、緩やかなパン・フォーカスとも言える被写界深度があり、遠くの風景がきれいに映っていたりして、風景写真と言うには不自然な動きが表現されたりします。

またピンホールカメラは逆光に強いということも特長の一つと言ってもいいと思います。ただ太陽からの直射光がピンホールの周りで干渉が生じるのか、フレアというにはあまりにも大きな光の輪が写り込んでしまいますが。

総じて仕上がった写真はアンダー気味のシャープさに欠けた眠たい画調になります。

作品の舞台となるのは淀川の河川敷とのことです。河川敷と言っても、そこは湿原のようでもあり、雑木林のようです。増水すれば押し流されてしまうだけの場所にもかかわらず、なぜか鬱蒼と茂る林が河川敷の中にあるのは私の家の近所の川にもあります。誰が植えたわけでもなく、人の手を経ているようで経ていない、原生林というよりは、誰にも顧みられない、打ち捨てられた場所のように見えます。

作者は作品の全てに窓枠のような木枠を風景の両端に置いていて、それは自分の家の窓からの風景であるかのように写しています。作者自身の案内文によれば、淀川の近くに住んでいるそうです。

河川敷に残された自然について残しておきたいとも作者自身が書いていますが、私はこれらの写真を観ていて思い出してしまうのはまったく別のことでした。

例えば頭に浮かんだのは、昔読み飛ばした花村萬月の小説に出てくるような登場人物のことです。

例えば暴力衝動に駆られた人間が、それを成し遂げてしまった後に逃げ込んだ河川敷からの視線。自分が駆られている情念や欲望から逃れられないことにウンザリしながらも、それを止めることができない、全てが終わって残っているのは徒労感のみ、見えているようで何も見ていない、何か上の空で、思い返しても何も覚えていない、モノクロの夢のような視線。

だから画面上に演出された窓枠も鉄格子に思えてくるのです。そんな刃のような視線を写真から感じてしまうのはいくらなんでも穿ちすぎだろう、と自分ながら思ってしまうのですが。

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2009年5月24日 (日)

河原雅夫写真展-Re-View-エプソンイメージングギャラリーエプサイトギャラリー2

例えば鋼管を撮った写真があります。撮影場所は鋼管を集積するヤードのようなところなのでしょうか。鋼管の向こう側にも、その向こう側にも幾重にも重なって鋼管が見えます。その単調な構図のためか遠近感が喪失していて、模式的に見れば、画面一杯にたくさんの黒い輪が広がっているように見えます。写真の題名の通り「kaleidoscope」のようです。

湾岸地域の風景をテーマとしたモノクロ写真です。写真には草一本写っておらず、その意味で言えば荒涼たる風景を題材としていると言えます。

港には様々な素材が集積されています。それは巨大な鋼管であったっり、レールであったり、コンテナに詰められたコークスであったり、タービンの羽根だったり、砂山だったりします。

作者の説明にある通り、強い陽射しの元撮られたという写真は、光と影のハイコントラストな写真に仕上がっています。それでいてざらざらとした粗い粒子ゆえなのか、打ちっ放しコンクリートの壁やH鋼の粗削りの断面やシュリンクフィルムの凸凹した表面など、様々な材質のテクスチャーが浮き上がってきます。まるで空も雲も、そこに写り込む全てが同化していて産業資材の一つに見えてくるようです。

港というのは産業を支えるための生産資材を通過させるための一時的な仮置きの場とも言えます。その場を支配するのはいかにそれを積み上げそれを崩すかの効率性だけです。無造作におかれているように見えていてもそれは合理性という近代文明の「神」に支配されているはずで、この産業資材によってやがて作られる巨大構築物の揺籃の姿のはずです。

大都市は天変地異のあらゆる自然に打ち勝ち、屈服させることにより成り立ちます。どんなにデザインされた景観の都市であったとしても、そこに美があるとしたらその外力に抗うための巧みに設計された機能美であるはすです。

だからその大都市を構成するマテリアルにも美が宿っても不思議ではありません。極めて無機的な資材を被写体としているに関わらず、美しさを帯びてくるのはこのためです。さらに言えば「建築」という余分な意志が介在しないぶん、無垢な美しさがそこに存在すると言えるでしょう。

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2009年5月17日 (日)

小林静煇作品展-chimata-コニカミノルタプラザギャラリーA

東京の下町、目抜き通りから一本裏道に入った打ち棄てられた廃墟のような建物を題材とした作品展です。

作品は全てモノクロですが、微妙にその手法を変えています。闇の中の風景を無理矢理増感したような、粗い粒子の写真がこの作品展の白眉と言って良いと思います。

そのざらざらとした質感の中、もう住む人もいなくなった古びたアパートのモルタルの壁や、嵌め殺しのトタン板や、無器用に塗り固められたコンクリートの法面や、錆が浮き上がった鉄扉や、枯れかけた観葉植物が浮かびき上がってきます。

流行り言葉風に言えばそれはまさしく「昭和」の残骸であり、記憶の奥底に残った風景です。しかしながらこれらの風景を憧憬や懐古で語られるのではなく、極めて無機質に表現されています。しかもこれは昔の日本ではなく現在の日本の風景の断面です。

この作家の視点は徹底しています。自転車、電信柱、黒い染みの浮き出たモルタル壁など、どんなものであろうともシャッターを押せば絶対に写ってしまうだろう人間の営みのようなものを、徹頭徹尾排除しています。むしろここに存在するのは人間の欲望の果てにあるものであり、残されたもの置き去りにされた存在というのは、一種の禍々しさを持つしかないだろうという視点です。

私自身の感想を言えば、これらの作品を見ていて、かつて似たようなアパートに住んでいた頃の、どうしようもない気持ちを思い出してしまいました。

そのくすんだモルタル塗りのアパート群の四畳半の一室で、能動的に何かをするわけでもなく、寝汚く眠り続けた土曜日の夕方、とんでもない蛸壺の中に落ち込んで抜けられないのではないかと突然襲われた強迫観念です。ほとんど八つ当たりに近いことはわかっていたものの、このどうしようもなさは風景の殺風景さにあると呪ったものでした。

歴史を遡れば、昭和のある時期モルタルのアパートは憧れの対象だったかもしれません。今で言うとその対象はワンルームマンションということになるのでしょうか。だとしても何十年後の未来には打ち棄てられたようなワンルームマンションの廃墟が東京に広がっているかもしれません。

この無機質さは都会という世界に必然的に内包するものであり、それはなくなるのではなく実は今後ますます広がって行くのではないかとも思わせてしまいます。

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2009年5月10日 (日)

神田川義和写真展-幻想画布-エプソンイメージングギャラリーエプサイト ギャラリー2

「廃墟萌え」なんて言葉があるかどうか知りませんが、私はかつて廃墟の写真を集めたサイトを覗きに行くのが大好きでした。今その廃墟に大きな変化が起こっているらしい、というのがこの写真展に行くととわかります。

撮影は2008年頃から行われていることです。そう言えばこの手のサイトを覗きにしばらく行っていないということに気がつきました。ちょっと目を離した隙に世の中はどんどん進んでいきます。

一昔前までは公園や橋の下、酷いときには民家の壁まで書き散らされていた落書きが減ったよな、と通勤電車の車窓から薄ぼんやりと考えたりしていました。割れ窓理論とか何か、ニューヨークの治安が劇的に回復し、落書きが減ったのに対応して、日本の悪ガキたちも落書きなんて今更ダサいと考え出したに違いないと勝手に理屈をつけてみたりしてました。

ところが日本の無名で絵心のある悪ガキ達は消えていませんでした。彼らは自らの作品を表現するために最高の舞台を見つけ出しました。その作品の舞台とはつまり、廃墟の剥き出しになった壁面です。

この手の廃墟は朽ち果てるまでに放っておかれるだろうし、わざわざ金をかけて消すこともないでしょう。昨今の景気状況を考えても、廃墟は増えることは間違いないでしょう。今後彼らのキャンバスに困ることはないと思います。つまりいいところに目をつけたということになります。

ただ元々落書きというのは人の目のないところで書き続けるものですが、描かれたものは人の目につくことが前提になります。ところがこんな廃墟に訪れる人間と言えば、肝試しか、シンナー吸う高校生ぐらいしかいないでしょう。では何のための表現行為か? という疑問が湧いてきます。

誤解を恐れずに言い切ってしまえば、その落書きに、ある種宗教画のような神々しさを感じとってしまうのです。

この不景気な世の中に満ちている強欲さ、非情さ、愚かしさ、恨み、憎しみなどが、廃墟という場所で悪霊に姿を変えて棲み着いているのだとすれば、そこに描かれる落書きは、それらの悪霊を諫めるための壁画のようなもの、つまり悪魔封じなのではないか、と思えてくるのです

恐らく廃墟を題材に写真を撮ろうとした場合、朽ちたものの中に決して写ることのない過去を見ようとするでしょう。転がっている薬罐ひとつだって歴史があるわけであるし、それを撮ることによって、廃墟に至った過去が浮かび上がってくるかもしれません。

この作家はそのようなアプローチは決して取りません。落書きを極めて実写的に、スプレー缶で描かれた絵の原色そのままを写し取ります。まるで国宝の絵画を撮るようにです。

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2009年5月 2日 (土)

Gim Eun Ji写真展-ETHER-新宿ニコンサロン

韓国の写真家の写真展です。

白い壁の部屋の写真があります。壁全体に描かれているハングル語。何が書かれているのか私には読めません。その隣の写真が不思議な写真です。若い女性が壁に敷かれた紫色の風呂敷のような布の上に立っています。何かポーズを取るわけでも表情があるわけでもなく、ぬっと立っています。帽子を被っていますが、その部屋は天井は不思議なほど低く、彼女の頭がつかえています。その天井から照明用と思われる、剥き出しの電線が垂れ下がっています。

この写真のイメージするところは明確のような気がします。つまりこの女性のイメージする他の誰かの死、それも縊死のイメージです。

その次の写真は打って変わって小学校の教室の写真になります。一人の少女が後ろ向きにカメラを見つめています。何故かその目のあたりに光が当たっています。光の当たり方は不自然であり、何かの啓示であるようにも思えます。それは時間が遡り、一つ手前の女性の少女時代ということになるのでしょうか。

おそらくこのようにして写真の意味を絵解きのように説明することがこの写真展の一番の鑑賞の仕方であるかもしれません。

写真展の題名は「ETHER」です。「ETHER」というのはかつて物理学で、光の伝搬について説明するための仮説として考えられた仮想の物質であり、世界には目に見えない「EHTER」が満たされているということになります。しかしながらその学説は今では否定されているとのことです。

写真展全体が一つのドラマになっているように思えます。写真は決して多くを語りません。そのドラマについてはっきりとはわかりません。作者のパーソナルヒストリーの暗示かもしれませんし、そうでないかもしれません。作者の言葉で言えばマルチラテラルな解釈を求められると言うことです。

つまり写真と言う表現はレンズを通して画像を呈示することでありますが、その写真を観る人たちへ、「EHTER」を介してそのイメージを伝搬させなければならないということです。

そのイメージは時間を超え、そこに写る画像を超えてしまうはず、つまり今の素粒子物理学で言うところで言えば、ダークマターということになるでしょうか。

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2009年4月29日 (水)

大川孝写真展-FOTO PREMIO 「SENDAI」-コニカミノルタプラザ ギャラリーB

「SENDAI」は日本の地方都市、題名の通り仙台の街中に佇む人たちのスナップ写真です。

この作家は1986年生まれの若い作家であり、東北芸術工科大学在学中とのことです。

スナップ写真と言っても、どの作品も撮る側も撮られる側も計算され尽くしたポートレート写真のような完成度であり、古きモノクロ映画、ヌーベルバーグ映画の一シーンのようです。

特に女性の写真が極めて印象的です。全てが美人で若いわけでもありませんし、子供も登場してきます。それでもそこに映っている彼女たちは極めて魅力的です。一言でいうとどの女性はとってもカッコ良く写っています。

このカッコ良さというのは、普遍性であることと思います。つまり被写体として選ばれた舞台は「SENDAI」という限定的な地方都市ですが、それは「TOKYO」でも「HONG KONG」でも「SHANGHAI」でもいい、無国籍な魅力と言い換えができるかもしれません。

会場であるコニカミノルタプラザがある新宿は、カメラ量販店の「さくらや」の跡に「ユニクロ」が完成し、その開店の宣伝で外人女性をモデルとしたポスターが溢れております。私は商業的な写真の良し悪しについて、あまりよくわかりませんが、街に溢れるどんなディスプレーよりもはるかに素敵な写真であることは確かです。

この作家の手にかかればどんな人だってポスターの題材となるのではないかと思うほど、手腕は確かであると思います。

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2009年4月26日 (日)

植田修子写真展-FOTO PREMIO 私の東京生活-コニカミノルタプラザ ギャラリーA

私自身東京生まれですが、数年間地方都市で暮らしていたことがあります。その頃、出来の悪い低予算の映画、つまりピンク映画と呼ばれる映画が妙に好きになり、土曜の夜を映画館で過ごしていたことがあります。

ステレオタイプの筋、あまり魅力的とは言えない出演者、そんなことはあまり意味がなく(むしろつまらないドラマなどない方がいい)、その映画の合間に挿入される風景が大好きでした。江古田あたりの路地裏の風景だったり、新宿、靖国通りのネオンだったり、低予算の映画はセットなど組めるわけもなく、そのカメラの視線はちょうど私が見るだろう視線に近かったからかもしれません。きちんと演出された映画では逆に抑制されてしまう剥き出しの風景が、安っぽい映画ゆえに広がっているような気がしたのです。

余りにパーソナル過ぎて、誰にも伝え切れる自信がないゆえに、却って胸が締め付けられるような懐かしさがこみ上げてくるのを探していたように思えます。

今回の写真展は、岡山出身という作者が東京に出てきてから撮りためた写真です。写真には番号が振られてあり、現在の彼女の自宅からの距離が写真の題名になっています。

会場に行くと小さな紙が置かれています。その紙には同心円が描かれていて、写真が撮られた場所の座標がレーダーチャートのように描かれていています。

その距離は数キロの自宅周辺から数百キロまで、その範囲は広範に渡ります。

ただその距離に何の関係があるのかはあまりはっきりしないような気がします。質素な造りの民家の玄関先に揃えられたスリッパ、あるいは山中にぽつんとあるスチール製の物置、キャベツ畑、脈絡があるようでない風景写真が並んでいます。

その写真には極めて濃厚なパーソナルな意味合いが漂ってきます。その中身、つまり作者自身の心象風景の詳細については決して明らかにされません。提示できるのはその風景がある座標だけです。

悪意を持って言えば、説明不能な風景の羅列をされただけでは見る側にとって迷惑なだけだ、と言うことができます。

例えば大人になって、自分が観ることのできる風景が自宅の周りだけだったのが、自転車に乗れるようになったり、一人で電車に乗って遠くまで行けるようになったりして、観ることのできる風景の数が飛躍的に増えたというのは実感できることです。さらに加えて写真という表現を手に入れることにより、世界的な広がりを持って、他の人たちと共有できるのだ、という手応え、その喜び、それらがこれらの作品を支えているのかもしれません。

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2009年4月19日 (日)

近藤善照写真展-NIGHT BREATH II-エプソンイメージングギャラリーエプサイト ギャラリー2

夜の盛り場を題材とした写真展です。荒い粒子のモノクロ写真で、盛り場を行き交う人たちをスナップしています。カメラのアングルは人間の視点の高さではなく、かといって犬や猫の視点の低さでもない、腰のあたりの高さから撮られています。

たぶんノーファインダーで撮られているのか、画面は傾き、ブレています。その隠し撮りの雰囲気は一昔前の写真雑誌に出ていた、芸能人カップルの密会を撮ったスクープ写真のような臨場感があります。

恐らく街を撮ろうとした場合、その街に対してどのように接するのかで、その都会の見え方は全然違います。街の顔役なのか、それとも野良犬なのか、ペントハウスの住人の視線なのか、ホームレスの視点なのか、その街の表情はがらっと変わります。今回の作品は明らかに盛り場に対してアウトサイドの立場にいる人間の視点から撮られています。

ただそれは殺伐とした風景なのかというとそんなことはありません。

東京生まれの私は、上京して都会の風景に目が眩んだというと経験はなく、物心がついた時から都会というものがありました。

それでも思春期を迎えて、突然街の風景が変わって見えるというその瞬間を今でも覚えています。つまり盛り場を支配するある種の欲望についての理解、そしてそのために集まる女性達が突然魅力ある存在に思えてくるその瞬間です。同時にその世界に自分が入っていけるのか、そのめくるめくものを果たして共有することができるのだろうかという絶望的な疎外感が沸いてくるのを感じてました。

これらの作品に登場する女性達は、私がその頃感じたような眩しさに満ちています。彼女らのしなやかな肉体、盛り場の中で「市場価値」ありとされる肉体が、ざらざらとした荒れた画調の中で浮かび上がってきます。けっして肉感的というわけでもなく、かつ退廃的なものとしてでもなく、ある種の憧憬と優しさに満ちた作者の視線で撮られていて、それが魅力的だと言えます。

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2009年4月13日 (月)

山市直佑写真展-アジアン・トゥデイ-ニコンサロンjuna21

9.11というのはつまるところ、イスラム「原理主義」とアメリカを代表される金融「原理主義」との相克だったと思います。戦いはその後も現在まで続いているようにも思え、「金融」側は遮二無二突っ走った結果、サブ・プライム問題で自壊の瀬戸際まで追い込まれてしまいました。

貪欲な彼らはグローバル・スタンダードと言う名の投資ルールを作りあげ、水面化で世界中の原材料を投機の対象とし、経済行為を証券化し、世界各国の経済をリンケージしたわけです。

同時に巨大資本はますます至る所に浸透し、最大消費を家計に強いるために、あるべき中産階級のライフ・スタイルを規定し、その姿に誘導するためのビルボードをずらりと並べ、草刈場であるショッピングモールを作り上げました。

その結果何が起こったのでしょうか? 世界各地のランドスケープの統一化、つまり「郊外」化というべきものが進行しました。

この若い作家はアジア各国(東京・大阪を含む)を訪れ、グローバルな「郊外」化の実態についてフィールド・レポートを行いました。

写真家の視点、あるいは旅行者の視点からみればこれは由々しき問題といえます。この作家の方法論は徹底していて、「郊外」化によって侵食される均質な空間を描き出しました。それはカザフスタンの都市から、東京までアジア各国を蹂躙しつつあるものを暴き出します。昔ながらの風景に画一的な高層ビルが現れるのは、あたかもWTCの亡霊のように思えてしまいます。

振り子が片方に振れれば、もう一方にカウンターパートの力が働くのも不自然ではなく、現在のように共倒れのグローバル・リンケージを経ち切るために、経済・文化のブロック化、ローカル化に向かうかもしれないというのも間違いではないかもしれません。

ただ私たちは極端に振り子が振れてしまった悲劇というものを知っていますし、さらに巨大ショッピングモールが象徴とするものが絶対的に悪かというと、必ずしもそうとも言えないことも知っています。

ちょっと厳しいことを言えば、アジア各国を回らなくても日本全国を回ればこれくらいのことはわかります。田んぼの真ん中、国道沿いに忽然と現れる3千台無料駐車場、シネマコンプレックスつき巨大ショッッピングモールなんてものがいたるところにあったりします。さらに言うならば地方で生活したことがあるものにとって、そのような商業施設が建設され、ユニクロやスターバックスコーヒーが地元にできるのを楽しみにしていたりすることを。

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2009年4月 9日 (木)

神田川義和作品展-曖昧な時間-コニカミノルタプラザギャラリーB

1230万画素のデジタルカメラで撮られ、大型インクジェットプリンターで出力された作品です。人通りの中、三脚を据え、スローシャッターで撮影したとのことで、新宿、池袋、銀座、お台場など東京を代表する盛り場の夜景写真です。

作者の挨拶文によれば、ノーファインダーで取り続けたそうで、構図を狙うというより、そこに映りこむ人たちが醸し出すものを大切にした、ということが書かれています。

都会に溢れる光はLEDに変わっていきます。そのような半導体による発光を捉えるためには半導体素子による画像化がもっともふさわしいと考えるのも腑に落ちる考え方でしょう。

ソリッドステート化された満艦飾の光の洪水と、同じくデジタル化された受光素子との間を、浮遊するかのように人々が通り過ぎます。

スローシャッターで撮られた写真ですから、足速に通り過ぎる人達は薄くぼやけてしまいます。数秒と思われる露出時間の中で、人の流れに澱んだような佇まいの人が、作品の中に一人か二人います。

その人たちは、抱き合ったり、信号待ちをしていたり、携帯電話でメールを確かめたり、あるいは着の身着のままでベンチに寝転んでいる人たちです。

その瞬間、表情を固めている人達の表情は、おそらく偶然に違いなく、そこに留まっていることの意味などないでしょう。作者が選んだデジタル的な舞台と視線に囲まれて、ほんの束の間ですが逃げ場を失って、所在なさげにも、物憂げにも、途方にくれているようにも見えます。さらに言うならば、この作者は敢えてデジタル的手法を使って街行く人を追い込んだとも言えます。

東京の街角を撮る写真は比較的多く見かけますが、敢えて先端技術を積極的に取り込んでその先に見えるものを追い詰めるという作者の手法は斬新だと思います。

いずれにしろ、大判プリント出力の美しさに目を奪われます。デジタル写真による表現の一つの到達点とも言えるでしょう。

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2009年4月 2日 (木)

筬島孝一写真展-記憶の中の今-新宿ニコンサロン

この作品で取り上げられたのは、大分県、都市近郊の兼業農家。その家の雑然とした庭を撮影したものです。その家の主と思われる人たち(多くは老人です)のポートレートも数枚あります。

雑然と置かれたプラスチックのトレイ、ビールケース、発泡スチロールの箱、ポリタンク、マス・プロダクトの流通の過程で生み出された様々な包材が捨てられることなく積み上げられています。

こぎれいにガーデニングなど施している都会の新興住宅地などは、この文明の本質的に抱えている矛盾を巧みに押し隠して、よそよそしさを感じさせるのに対して、懐かしいような、ほっとさせられるような気にさせられます。

前近代のある種合理的とも言える循環型のシステムがまだ残る農村に、突然押し寄せてきた大量消費文明が生み出した様々な消費財を、その文明の矛盾をそのまま溜め込んだような印象の裏庭です。

まさに昭和の風景と言ってもいいですが、紛れもなく現代の風景です。そもそも大量消費文明なんて言葉もほぼ死語に近い言葉と思えるくらい、それが浸透している現在です。それでも今なお残るこの雑然さは、逆に日本社会の健在さが残っているようにすら思えてしまいます。

作品を見ているうちに私はなぜかヘミングウェイの「清潔で明るいところ」という短編小説を思い出していました。自殺し損ねたという老人が馴染みのカフェで延々と粘るのを追い出す同僚の若いウェイターを横目で見ながら、人生は無でしかなく、光と清潔さがあればいいとつぶやく男の話です。

この作品の世界はまさにヘミングウェイの世界から一番遠くにあると思えますが、雑然というよりは混沌とも言っていいほどの空間、小宇宙に安らぎを覚えるというのは、日本的、東洋的ということなのでしょうか。

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2009年3月27日 (金)

野村佐紀子写真展-もうひとつの黒闇展-BLDギャラリー

ギャラリーを回るようになって半年足らず、そこで開催される写真展のテーマは多彩ですが、あまり正面から取り上げられない、欠けているものが一つあるなぁと思っていました。それはエロチシズムというテーマだと思います。

まさかとは思いますが、ギャラリー側に倫理規制があるのでしょうか。考えられるとしたらエロチシズムが写真のテーマとなり得ない時代なのかもしれません。私が集中的に写真を見出してそれほど日が経っているわけでもないし、全てを見尽くしているわけではないので、はっきりとしたことは言えませんが。

彼女の「夜間飛行」などの写真集をみるにつけ、是非とも実物を見たいと思うようになっていました。そのテーマに真っ向勝負しているような気がしたからです。

作品展の題名は「もうひとつの黒闇」です。私の電子辞書(広辞苑第五版)で言葉を引いても「黒闇」という単語は出てきません。作者の造語なのでしょうか、ちょっと引っかかりのある題名です。

展示されている作品は全てモノクロ写真です。白眉と言えるのは会場の奥の壁面に並べられた写真でしょう。ソラリゼーションといえばいいのでしょうか、遠目から見ると何も写っていない黒い印画紙が飾られているだけのように見えます。だから近づいて目をこらさなければなりません。闇の中から被写体の輪郭が仄かに浮かび上がってきます。正直言ってあまり見やすい写真ではありません。裸体の写真があります。裸体の主は男なのか、女なのか、キスをしているのは男同士なのか、手探りしても届かないもどかしさがあります。

彼女の写真を語るのに象徴的な一枚があります。ビルの谷間からの写真です。明け方なのか夕暮れなのか、何羽かの鳥が明るい空に向かって飛び立っています。彼女の視点の位置は暗闇です。その鳥はカラスなのでしょうか、闇を抱えたまま明るい空を闇を覆い尽くすために飛び立っているようです。

つまり寝室の若い男性や女性の裸体写真に始まり、風景写真、様々な写真の共通する視点が次第に明らかになっていきます。つまり撮影者自身が闇にいること、闇の視点からの撮影されたものであります。

現代、特に都会に暮らしていると闇というものを知る機会がほとんどありません。たいていの場合手の届くところにスイッチがあり、すぐに灯りを手に入れることができます。為す術もなく、ただうずくまって朝が来るまで待つという状況は余程の事故に遭遇した以外には考えられないのです。

では闇が当たり前だった時代に何を考えて朝まで過ごしたのか?  それとも襲われることに怯えていたのか、あるいは獲物を得るために欲望をかき立てていたのか? 漆黒の闇の中で今はすっかり失ってしまった、剥き出しの獣性を抱えていたのでしょう。

おそらくエロチシズムを作品として取り上げようとしたら、被写体のみがそれを帯びているというだけでは成立しないように思えます。被写体として存在するエロチシズムに対して、形而上なのか、形而下なのか、撮影者がそれに対抗するもの、カウンターパートを持ち合わせていないと成立しえないのです。撮影者は晒された被写体と同じだけの「何か」を晒されなければならないのです。

エロチシズムというのが作品として成立しないというのが状況にあるとしたら、それは華やかに見えるフロントエンドのエロチシズムに対して、対抗すべきバックエンドとしての撮影者の「何か」が疲弊するか、荒廃しているか、あるいは手詰まりの情況に陥っているのではないかと思えてしまうのです。

彼女の作品が今の時代に輝きを持つのは、そのカウンターパートとしてのものをしっかりと抱えてているからにほかなりません。

黒闇。この作品のエロチシズムの根源があります。

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2009年3月17日 (火)

臼田 健二写真展-Water Way-銀座ニコンサロン

北海道東川町在住の写真家の作品展です。彼が住む町を舞台としています。

北海道ですから自然に囲まれ、被写体には事欠かないと思われます。しかしながらこの作家は少しひねくれていて、モノクロで撮られた風景はあまり北海道らしくはありません。何故ならば彼が固執したのはただ一つ、稲作地帯らしきその町に流れる用水路です。

地方の公共事業ということで手厚い予算がついたのか、用水路と言ってもちょっとした川と言っていいほどの大きさの水路もあります。さらにそれらはコンクリートで造られた単調なものかと思うと、堰があったり滝であったり、様々な構築物を経て水は流れていることがわかります。

その水が流れる様をスローシャッターで撮っています。もちろんこの技法は目新しいものではありません。瞬時としてとどまることを知らない水の流れを、長時間露光することにより、非現実な世界が写しだされることになります。

水の流れは例えるならば、コンクリートで固めた川床から吹き出す熱く熱せられたロウのようにも、急流でうねる水面も厚く覆われたゼラチンのように見えてきます。

おそらく水利という実利面以上のものをその用水路に見いだされたことはないのでしょう。ここに作者の視点あります。それが被写体としてなりうることを発見したという、ワクワク感が伝わってくるような気がします。

それは子供の頃、配材置き場や集会所の床下にちょっとした空間を見つけて秘密基地と読んだ子供の頃のワクワクした感じと似ているような気がします。 ちょっとした発見と子供の頃に抱いたような冒険心。それがこの写真の楽しさです。

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2009年3月15日 (日)

本城直季写真展ーここからはじまるまち Scripted Las Vegasーエプソンイメージングギャラリーエプサイト1

このギャラリーは1と2が分かれていて、1の方は比較的有名な写真家が旧作をデジタルプリントするというイメージが私には強いですが、今回は題名に”新作写真展”とあるように、撮り下ろしということになります。

本城直季は写真集「スモール・プラネット」で話題を呼んだ写真家です。その独特撮影手法をそのまま、舞台を日本からアメリカのラス・ヴェガスに移しました。

まず人工湖フーバーダムの遠景からはじまります。それから山肌を引っかくようにして工事を進めるハイウェイがあり、造成地、高層ビルが蝟集する都市、飛行場を経て、広大な建売住宅(プール付き)の遠景にたどり着くことになります。

それはあたかも歴史の旅であり、都市の形成過程を俯瞰するかのようです。実際ラス・ベガスは砂漠の中の都市であり、フーバーダムの完成によって水を引き込むことにより、街を造ることができたわけです。

幸いなことにラス・ベガスという都市は未だに開発が続けられているようで、その都市の多彩な姿を撮り続ければ、歴史絵巻ができるということになります。たとえは悪いかもしれませんが、都市を作り続けていくシム・シティーと言うコンピューター・ゲームのようでもあります。

作者の撮影技法については、今更私があれこれいうべきものではないかもしれません。アオリと呼ばれるテクニックだそうで、光軸をフィルム面からずらして撮ることを特徴とします。できた写真というのは中央部のみ焦点が合っていて、周辺部はぼけてしまいます。つまり焦点の合った部分の写実とまわりのボケの部分との対照を際だたせることにより、遠近感の喪失、ディティールの不自然な際だちなど、極めて計算された錯覚がそこに現れます。そして彼の撮る風景が実写にも関わらず、ジオラマのように見えてきます。

それは写真機の描写能力について、その可能性と限界の境界線を知り抜いた作者が、巧みにその境界を使いこなすことによって得られるマジックと言っていいでしょう。デフォルメされたランドスケープはファンタジーの世界にも見えるし、白日夢のようにも見えます。あるいは巨大な構築物を作り続けることに代表される人間の営為というものの、ある種の馬鹿々々しさ、滑稽さが浮き彫りになってくるようです。

ただし今回に限って言えばラス・ベガスは日本より広すぎました。そして巨大ゆえの単調さが目立ってしまい、被写体としてそれほど魅力的だったかどうか? アメリカの風景は日本ほど箱庭的ではない、というような気がします。

最後にこれからこの展覧会を訪れる方に一言。このギャラリーは入り口が三カ所ありますが、正面(動く歩道がある地下道の反対側、ビルのエレベーター側)から入ることをお薦めします。そうでないとこの写真展の意味が伝わらりません。

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2009年3月 7日 (土)

高木松寿写真展-「影の陰」Shade in Shadows-キャノンギャラリー銀座

会場を訪れて何故か突然思い出したことがあります。

子供の頃の話です。私にとって電車に乗るのは楽しみでした。席に着くやいなや、くるりと後ろ向きになります。隣の人の洋服を汚すからと母親に靴を脱がされ、そのまま背もたれにしがみついて車窓の風景を見ていました。電車からの風景はどんなに単調だったとしても見飽きることはありませんでした。その頃の影響か、今での新幹線や飛行機に乗るときも必ず窓側を予約します。もっとも最近電車に乗っても一生懸命風景を見ている子供なんてほとんど見なくなりましたが。

一枚の写真があります。会場の一番奥、大きな写真です。サーキットか、テストコースか、センターラインとガードレールのみが写された写真。走り続ける車の中から撮ったかのような疾走感があります。

さらにいくつかの子供の頃を思い出します。父親の自慢の車に乗せられて確か浅間山あたりをドライブしたこと。おとなしくしていなさいと怒られながらも、恐る恐る窓から覗いた風景。それは火山岩が転がっている荒涼とした景色の記憶です。

写真は全てモノクロです。それは夜の風景なのか、昼間の風景で光量を落として撮ったのか、たぶん後者の写真が多いのではないかと思います。雲、海、センターライン、テトラポッド、非現実的といっていい、光の当たり方です。奇妙なそして、計算しつくされたコントラストから浮かび上がってくるのは、見る人の網膜を通り越して、記憶という意識に直接刺激するかのようです。

どの写真も懐かしい感じがします。思い出せるような思い出せないようなあやふやな感じ。実際の風景なのか、何かの古いモノクロ映画の印象的な一シーンなのか。実際に見たわけではないけれど、この風景を見たかったと、あるいは見たことがある、と心をじわりとそしてやさしく熱せられている感じです。

しかしながら写真は1973年から1985年までに撮られたとあり、海外の風景ですから私が懐かしいと感じるのはおかしいことです。でも忘れかけていた郷愁のようなものが喚起されてしまうのはどうしてなのでしょうか。

すべてを忘れてしまうことは快感のような気がします。世の中には忘れていけないことは多すぎるし、逆に忘れたくても忘れられないことも多すぎるからです。ただ忘れることというのは、コンピュータの画面をシャットダウンするように一瞬で消え去るのではないようです。ゆっくりと時間をかけて朽ちるようにして消えていくのでしょう。イメージの中から色が消え、背後にあったディティールを失い、輪郭がぼやけ、そしてゆっくりと暗黒の中に溶け込んでいくのでしょう。

この写真の心地良さは、決して忘れたくないけれどそれでもやがては消えてしまう記憶の最後の断片として撮られていることに由来するような気がするのです。イメージが消え、無意識の彼方に追いやられてしまう、その一瞬の燐光のような輝きにシンクロナイズしているかのようです。

それは色のない夢を見るのと似ているような気がします。

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