« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »

2008年11月24日 (月)

米田知子展-終りは始まり-原美術館

(Ⅰ)

原美術館というのは品川から結構歩いて時間のかかる不便な場所にある美術館ですが、若い女性に人気があるようです。時間が悪かったのか、偶然なのか、男一人は私だけ。チケット売り場の女性も突然の私の出現に驚いているようにみえたのは、私の思い過ごしでしょうか。

おそらく大きなお屋敷を改造したと思われる会場の制約なのか、それとも何か意図があるのか、作品の並べ方が変則的に思えました。会場の入口にいきなり初期作品が飾られ、色々な時期の作品が錯綜する形で展示されています。

今 回の写真展について整理して時系列に並べると以下のようになります。初期作品としての「トポグラフィカル・アナロジー」(1996-1998)、トロッ キーやフロイトなど著名人の眼鏡越しにその著名人にまつわる書翰類を見つめた「見えるものと見えないものの間」(1998-2008)、ヒトラーの遺品を 写した「信じがたきものの断片」(2002)、世界各国の歴史上に刻まれた地を訪れた「シーン」(2002-2007)、ソ連崩壊後の東欧を題材とした 「雪解けのあとに」(2004)、および「立ち上がる都市」(2006)、北アイルランドを主題とした「ワン・プラス・ワン」(2007)、そして「パラ レル・ワールド-ゾルゲを中心とする国際諜報団密会場所」(2008)、となります。

初期作品、「トポグラフィカル・アナロジー」を例外 とすれば、この作家の方法論ははっきりしています。気になった写真についてその写真の題名を書き下してみます。「スナイパー・ビュー-クリスチャン・スナ イパーのポジションから中間地帯を望む、ベイルート」「道-サイパン島在留邦人玉砕があった崖に続く道」、つまり私の説明はほとんど必要ありません。この 題名通りの作品です。

ざっと会場を見回して、この写真家はかなり際どいことをやっているな、というファースト・インプレッションを受けま した。上述の「道」という作品について言えば、その題名を知らなければこの写真についての価値を見出すことができないわけです。単に歴史上に名を刻まれた 地点を訪問しての記念撮影、観光旅行のスナップ写真とどこが違うの? という疑念に捉われてしまうわけです。

さらに言えば写真に写真以外 のところに意味を求めた場合、色々な負うべきものが生じてしまいます。例えばなぜパールハーバーでなく、サイパンを撮ったのか、あるいはなぜイスラム・ス ナイパーの視点でなく、クリスチャン・スナイパーの視点なのか、撮ったもののみならず、撮らなかったものまで、写真以外の雑音が生まれます。

続きを読む "米田知子展-終りは始まり-原美術館"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月18日 (火)

ERIC写真展-中国好運 GOOD LUCK CHINA-銀座ニコンサロン

中国全土を旅し、街や市場など繁華街を中心にそこに集まる人たちのポートレートを撮り続けた写真展です。

この写真家は香港生まれ、現在は日本を活躍の場としています。香港時代の彼は「西洋化した自分」という自意識から中国本土の人間を見下していたと言っています。そんな彼ですが、彼の母親は中国から密入国者とのこと。彼が自ら写真のテーマを中国としたところ、その写真にどのようなトーンになるか、興味があるところです。

実際のところ、被写体としての彼らをこの作者は突き放して撮っているように思えます。例えばオートバイにまたがって格好をつけているオジサンのポートレートがあります。オジサンはなかなかいい面構えなんですが、何故か被っているヘルメットがピンク色です。同じくオートバイにまたがっているカップルの写真があります。後ろに乗る女性は美人のように見えるのですが、男のめがねの片眼だけサングラスだったりします。ただそれを単純に笑っていいのか、そう簡単に笑えません。

この写真に登場する人たちは総じて垢抜けていなくて、洗練とか繊細さなどからはほど遠い人たちのように見えます。そんな彼らは西洋を真似ているのではなく、西洋化した日本人や香港の人たちを真似しているように思え、何か面映ゆく思えてきます。

激動の時代を生き抜いてきた逞しさもあるようにも見えるし、また消費文明にどっぷり使ってスポイルされてしまったひ弱さも見えます。つまり西洋化という熱病に冒されて、見た目は元気でも何かが根腐れしているような、妙な危うさが漂っているようです。

それは良いことなのか悪いことなのか、西洋化の先輩である日本人や香港人の立場からでは何も言えないのでしょう。良いことばかりじゃないけれどネ、とただ表題通り、GOOD LUCKを言うぐらいしか。

写真は会場の壁に三段にぎっしり並べられています。一枚一枚を丹念にその写真を眺めるというのも間違いではないでしょうが、一歩退いて、この「群像写真」全体から発する中国という原色の熱気を感じるというのが、正しい見方なのかもしれません。まさしく中国人の熱気、そしてこの写真家が中国を撮り続けるという熱気、それらが互いに共鳴したものを感じることができます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月11日 (火)

蜷川実花展-地上の花、天上の色-東京オペラシティーアートギャラリー

私が蜷川実花の写真を最初に見た頃を思い出すと、何故かガングロ・ヤマンバギャルたちが街を闊歩していた頃のイメージと重なり合います。どちらかというと私は彼女らの登場に眉をひそめたクチですが、別の意味で彼女たちに一定の評価を下していました。

彼女たちの登場までは、ファッションというのは対男性とかあるいは対西洋とか、相対的なものを意識することによって成立しなかったのではなかったのでしょうか。そんな時代で、誰に踊らされることもなく(例えば大手資本)初めて自らの美意識(それが彼女たち以外の誰も共感し得なかったとしても、あるいは共感されないことゆえに)のみでファッションを成立させたのではないかと考えていました。

私が彼女の写真を初めて見たのは今回の展覧会でもメインに展示されている花の写真だったと記憶しています。それまで私にとって花の写真と言えばメイプルソープの花の写真でした。センセーショナルでどちらかというとスキャンダラスな写真家と思っていた彼の花の写真は、極めて繊細でかつ絵画的であることに驚きました。そして花という存在は実は死のイメージに一番近いんだと思わせるほど静謐さを醸し出す冷徹な表現に圧倒され、かつ感動を覚えたものです。

ところがです。そんな私の感動をよそに、蜷川はメイプルソープの方法論を踏みにじるような圧倒的な存在感で登場してきました。彼女の写真とは極論してしまえばセルロイドを着色した造花の赤色も、バラの赤も、赤という意味では同じだということです。そこにある微細なグラデーションもテクスチャーも意味はなく、そのフォルムすら曖昧でもかまわない、眼を閉じて浮かび上がってくる残像のような原色しか結局イメージとしてしか残らないじゃないか。網膜を焦がすような原色、それこそが美意識であり、かつて誰も撮らなかったものであり、それは対男性、対西洋、あるいは対伝統からも完全に独立した表現が可能だ、つまりこれがジャパニーズ・ガールのユニークな美意識だよ、という明確な宣言があったのです。

以上が私の展覧会場に着く前までの言わば彼女に対する予断です。

正直言うと私は少しばかり気後れしておりました。人気写真家だし、若い女性が多そうだし、私のようなオジサンが行くと浮いてしまうのではないか、と。実際ポートレートの写真のコーナーでは女性達が並んでいました。「昔、真似て同じ髪型していたのよね」という会話が聞こえてきます。ただ若い女性だけではなく、年配の女性も目立ちます。若い女性に人気なのは解りますが、年配の彼女たちが蜷川実花の写真に惹かれるのか興味があるところです。

会場は彼女の代表作がずらりと並んでいます。彼女は銀塩フィルムにこだわっているということを今回の展覧会で初めて知りました。ただ協賛の関係もあるでしょうか、プレクシガラスにプリントされたり、ライトボックスと称するスライドだったり、インクジェットの出力だったりします。

最近いろいろな写真展を回って気がついたことがあります。印刷された写真集と生の写真とは全く違うということです。生の写真の迫力を感じ、それが私が写真展に通う原動力にもなっているわけですが、商業的に成功した写真家ほど、その差は少ないということです。彼らの報酬のほとんどは印刷された媒体から得られていることから考えても、当たり前と言えば当たり前の話かもしれませんが。

だから正直に告白しますと、今回の写真展、ミュージアムショップで売られている展覧会のカタログの方がすばらしい出来だと思っております。どちらかというと彼女の写真は立派な美術館に飾られるよりは、彼女の写真の方法論から言ってもミュージアムショップで売られている土産物、缶入りの飴のパッケージ写真だったり、子供用学習帳の表紙だったりすることのほうが似合っているのかもしれません。

ですからここで語るとすれば彼女の新作「Noir」でしょう。これらの写真から言えることは行き着くところまで行き着いてしまった彼女の世界、展覧会の題名からすれば天上の世界からどちらに向かおうとしているのかです。

例えばイチゴの写真があります。そのイチゴの先端は三つに割れていて、明らかに畸形のイチゴです。彼女の初期の頃の写真にやはりイチゴの写真があります。それは漂白したような白いイチゴで、種の部分が淡いピンク色のイチゴです。ここに彼女の変化があるようです。被写体の選び方にも変化があるような気がします。切り刻まれた鶏肉の塊の写真、袋詰めにされた人形の写真、そして夜の写真。彼女の色彩には陰りが見えています。

それは何を意味をするのか、今まで彼女が極力排してきたように思える世界、すなわちエロチシズムの香りが仄かにします。彼女のそんな写真を見てみたいという私の願望かもしれませんが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月 7日 (金)

宮崎麻衣子写真展-シャドウ・ワンダーランド-キャノンギャラリー銀座

この作家の方法論は明確です。風景、その中で影を撮り続けています。その影をひたすら追い続け、フランス、スペイン、トルコ、イランの旅を続けます。ヨーロッパの、中東の美しい写真が並んでいます。私の好みで言えばスペインの闘牛場の写真が一番好きです。数人の男と牛、それらの影が金色に輝くスタジアムの中で影が伸びています。

当たり前のことですが、影というのは光とその光に晒されるオブジェクトがあることによって、物理的な必然性で生じる現象です。影という明快な必然性に比べてその主体であるオブジェクトにそれほど必然性があるのか、影は常にそれを問いかけているように見えます。

そのオブジェクトが生身の人間だった場合、自らの存在に絶対的な必然性はあるのか、と問われていることになります。その問いかけにイエスと答えられるはずもなく、例えばパリのエッフェル塔の広場を歩く人の影の写真を見て、その存在の危うさを感じてついつい引き込まれるように見つめてしまいます。何故見つめてしまうのか? その影を見つめている私という存在の危うさを見ているのに過ぎないと言うことに気がつかされます。

この写真展を見終わったあと、帰り道私はひとり夕暮れの銀座を歩いていました。歩道に写るのは、金色に輝くヨーロッパの陽の光ではなく、街中に錯綜する街頭やディスプレー用のサーチライトから放たれる光による影です。街を照らすたくさんの光から、私の足下を中心に放射状に広がる複数の影ができています。私だけでなく、私を通り過ぎる人たちも同じような影を抱えています。幾重にも重なるその影は濃淡がありどの影も曖昧で、頼りなく見えます。なるほど、この写真家は影というものに視点を定めたのならば、撮るべきものはたくさんあるのだなと思いました。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »