石内都写真展-ひろしま/ヨコスカ-目黒区美術館
写真には絶対に写らないもの、写らない「主体」を写そうとするのが写真家だという仮定に立てば、そのために写真家は何を試みようとするのでしょうか。その答えの一つとして、その「主体」の「周辺」に存在し、「主体」との関連性が明確で、かつ被写体として写るものを写すしかありません。
その「主体」と「周辺」の関係はある時は被害-加害の関係にあるかもしれないし、主人と奴隷の関係かもしれないし、あるいはお互いまったく無頓着でいるかもしれません。
はっきりしているのは、「主体」と「周辺」の関係で、先に「周辺」の方が朽ちたり傷ついてしまうことがあるし、その逆に「周辺」のみが生き残ってしまうということがあるということです。存在の時間は両者でぴったり同じであることはむしろ稀であり、たいていの場合は両者の存在に時間的なズレが生じてしまうのではないでしょうか。そしてその時間的なズレが一つの裂け目のようになって、「主体」そのものが晒されることがあります。
私がこの作品展を見て感じたことの一つとして、この写真家が両者の時間的なズレについて極めて鋭敏であり、かつ意識的であるということです
例えば<アパートメント>と呼ばれる彼女の初期の作品群があります。荒れた粒子のモノクロ写真のそれは、まったく先行きの見えない感じの暗いトーンで、1970年代後半の古びたアパートの写真を撮った作品です。その古びて朽ちたアパートは、おそらく空き屋となってしまったら三日と持たずに崩れ落ちてしまうような建物のように思えます。つまりそこに住む住民の息遣いでようやく存在しているかのようです。つつましいながらも健気に抱き続ける明日への希望かもしれないし、その日を何とか暮らすことができたという安堵感かも知れません。あるいはその住人は零落して鬱屈しているのかもしれないし、捲土重来を期して熱く情念を燃やし続けているかもしれません。
次にこの作家はその「主体」に一番近接している「周辺」、つまり皮膚に眼を向けます。<SCARS>および<INNOCENCE>という作品群です。この「主体」と「周辺」の関係性についてよりはっきり明確なものとなって撮られています。これらの作品では肉体に残されたメスの跡、ケロイド、畸形を写し続けます。傷跡は「主体」までも傷つけているのか、恐らく被ったはずの痛み、傷跡ゆえに失うであろう幸福への絶望、他者への妬み等々、「主体」と傷ついた皮膚という「周辺」の軋みを余すところなく写し出しています。
それでいて例えば傷跡の残る女性の裸体の写真は、神々しくさえ見えるところにすばらしさがあります。肉体は朽ちたり傷ついたとしても、決して傷つかない主体がそこにはあるのだという、作者の願い、そして被写体となった人たち自身の存在の力強さが伝わってきます。
白眉は最後のブースに展示されている、<Mother's>と<ひろしま>という作品群となるでしょう。特に私は<Mother's>という作品には深い感銘を受けました。
この作品は亡くなった母親の遺品、および母親が被った傷跡を撮ったものです。母親が遺したと思われるペチコートを撮った写真があります。その写真は透明な肉体がそこに宿っているかのように肉感的に浮き上がって見え、仄かにエロチシズムすら漂ってきます。
生身の人間としての母親、そしてかつて持っていたであろう性的な魅力を持った存在へ蘇らせる試み。こんな撮り方ができるのか、そして許されるのか? 恐らく男では絶対撮りようのない撮り方だと思います。それゆえにと言っていいかもしれません。遺品という生き残りの「周辺」、その隙間から熱く浮き上がってくる母親の、そしてこの作家の「主体」、私はそれに衝撃をうけていました。
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