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2009年2月24日 (火)

ダニエル・マチャド写真展-幽閉する男-銀座ニコンサロン

ウルグアイ生まれの写真家の個展です。

モデルとなったのはホセというウルグアイ在住の男。エリートを輩出した名家の出ですが、その家も没落し、唯一残った独身のホセが独りで住んでいます。

そのホセという男もかつてはエリート官僚だったのこと。その家は独り身の寂しさにに満ちているというわけではなく、かと言って掃除が行き届いているとも決して言えないのですが、その家に飾られている写真や、置物を見ると昔の栄光、昔のノスタルジーに耽っているかのようです。南米特有といっていい、くすんだパステル調の家の色彩が影響しているかもしれません。

彼の趣味なのか、あるいは彼が最後に看取ったという叔母の形見なのか、部屋にはセルロイドか陶製の人形が飾られていたりして、ホセ自身、エリート官僚の面影はほとんどなく、引きこもりのまま年を重ねてきたようにみえます。

ずんぐりむっくりとした体躯の男は今の暮らしに満足しているのか? そんなことがとても気になります。そうではないということは確かですが、彼の表情からは何を感じているかは読み取れません。

ではなんでそんな男、ホセを被写体として選んだのでしょうか。 二十世紀半ば南米のスイスと謳われたウルグアイのその後の国家そのものの没落の象徴としての彼なのでしょうか。

壁は剥げ落ち、ソファのマットは朽ちていますが、叔母のものと思われるワンピースや鏡台はそのまま残されています。家の中を見ると荒廃の一歩手前で踏みとどまっているようです。古き良き昔の思い出などというのは所詮人の胸にしか残らないもので伝えようもありません。それらは腐るのではなく、朽ちるまま、過ぎ行く時間を静かに見送りながら、精一杯の矜持を保っている男の肖像と解するべきでしょうか。

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2009年2月21日 (土)

竹谷出写真展-Shiro to Kuro にほんのかけら-コニカミノルタギャラリーB

冬の東北、あたりは雪一面、街頭もない暗い道の脇に一台の自動販売機があります。自動販売機の蛍光灯が照らしだすのは雪に刻まれた足跡です。その足跡の主は不思議なことに自動販売機に向かう足跡のみを残しますが、それからどこへ向かったかは不明です。

あるいは漁村の光景です。背鰭や切り裂かれた腹を寒風に晒されている日干しの魚がたくさん吊されていて、その向こう側で怪訝な顔をしてこちらを見つめている老婆がいます。無惨な姿の日干しの魚と老婆の表情の対比は極寒の地において、ユーモラスな雰囲気が漂っています。

雪に閉ざされた東北地方を撮り貯めた写真展です。被写体として選ばれたものに時代性を感じさせるものはありません。昭和の東北地方と言われれば信じてしまいそうです。

作者自身の説明によると、たまたま茅葺きの屋根から木が生えている家を見つけて写真を撮ったけれども、それが気になって数年後再びそこを訪れてみたということが書かれています。また写真が撮られた場所を示す東北地方の地図が会場にあります。

写真というものは風景の断片に過ぎず、いかに鄙びた風景が写真に収められたとしても、振り返れば巨大ショッピングセンターがあるということだってあるかもしれません。被写体を選びフレームアップすれば何でも語れてしまいます。

作り手が行うかもしれない作為に対する見る側の疑念に対して、作者は東北の津々浦々まで歩き回ったわけです。その歩みこそが作品に対する厚みとなり、見る側の疑念を吹き飛ばそうとしているかのようです。

時代性を感じられない被写体を選んだにもかかわらず、それでいて現代の写真と納得させてしまう時代性を感じてしまうところにこの作品の優れたところがあります。題名の通り、この作家がいかに沢山の「にほんのかけら」を集め、一つ一つ観察吟味していったか、その作業の成果であることは確かです。

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2009年2月19日 (木)

緒方範人写真展-Cassandra Had the Strangest Dream-コニカミノルタプラザギャラリーA

新宿駅東口歩いてすぐのビルにあるコニカミノルタプラザは通勤の途中ということもあり、足繁く通っているギャラリーの一つです。

ただ主催元の企業はすでにカメラ事業から撤退しており、昨今の大不況を考えてもいつ閉鎖されてもおかしくはない状況だと思います。その閉館前の最後の輝きなのか、とは思いたくないですが、最近は力作が多いと思います。

この半年間の世の中の変わりようというのはすざましいものがあります。あれほどグローバル化を叫んでいた張本人が、突然バイ・アメリカンなどと言い出す始末です。なぁんだ結局そうだったのかと憑き物が落ちたような、株価が落ち込んだ以上に短期間にものの見方が百八十度変わってしまったことに驚きを感じます。

今回の写真展、奇しくも前回取り上げた高田玲さんの写真と極めてそのコンセプトが似ています。単に巡り合わせの問題なのかどうかわかりません。都会の風景、特にビル群が織りなす紋様を大胆な構図で取り出すという手法に、写真家(たち)の一体何を見いだそうとしているのでしょうか。

繰り返しになりますが、前回高田さんの写真を「都市の結晶多形としての建築」といった意味のことを書きました。今回の緒方さんの写真はさらに徹底していて、単に矩形の集合体であるビルのテクスチャーの美しさは官能的ですらあります。

展示はやや変速的です。四枚ひとまとめにした組写真が数組展示されています。ほとんどは都会のビルの写真ですが、一組だけどこかのお寺か、瓦葺きの建物の写真があります。最初私は少し違和感を感じました。何故作者はここに伝統的な家屋の写真を忍ばせたのでしょうか。

建築という汎用のオブジェクトがあり、それに対するベーシックな機能美への回帰がここにあるように思います。金融バブルが弾けてからこれから何をすべきなのか、不景気の嵐の真っ直中、こんな方向に世の中が流れていくんだなと、妙に時代の雰囲気に合っているような、つまり憑き物が落ちるような感じがします。穿ち過ぎかもしれませんが。

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2009年2月13日 (金)

高田玲写真展-Black Post-コニカミノルタプラザギャラリーC

モノクロで撮られた都市の風景写真です。

都市を撮るにあたって写真家はどのような態度でファインダーをのぞき込むのでしょうか? そこに繰り広げられる人々の生々しい営為の有り様を写し取ろうとするのでしょうか? それとも多くの人間が怨嗟のまなざしで見つめてきた、その視線の堆積の厚みを撮ろうとするのでしょうか? 見えるものをありのまま撮るのか、それとも見えないものを撮ろうとするのでしょうか?

おそらくカメラをカメラを構えるためには観察者でなければならず、良き観察者であるためには社会学者や歴史学者の素養が必要かもしれません。それでは今回の写真展の作者は何系なのでしょうか。少なくとも文系ではないようです。

例えば新宿駅西口、小田急ハルクへ向かうペデストリアンデッキのエスカレーターから、小田急デパート本館を写した写真があります。見慣れた、というよりは見飽きた風景ですが、この写真家が撮ると立派な作品になります。これは正直私にとって驚きでした。

それはこの作家のコンセプトの揺るぎなさによるものです。その透徹した視線で写す写真はありふれた景色にまったく新たな光を当てます。

作者は都会を織りなすテクスチャーと言うべきものに注目します。海や砂漠に刻まれる波紋や砂紋に似ているようです。人間が都会を造ろうとしたとき一体何をするのでしょうか? タイルを敷き、柱を並べ、煉瓦を積みます。都市を造るということはその冗長な繰り返しです。

その冗長さは設計者の天才的な手腕により幾何学的美しさをもつことがあるかもしれませんが、そのほとんどは四角い箱の積み重ねに過ぎません。まさに都会の画一的な殺風景さであり、少なくともまともな写真家ならば被写体として選ぶことはないと思っていました。

ところがこの作者は斬新な視点で都市を捉え直します。都市という存在はまさに一つの組織体です。その構成要素はある意味多種多様な相転移と見えなくはありません。つまりこの作者は都市の結晶多形とも思える建造物を、一つ一つ丹念に顕微鏡で観察する結晶学者のような姿勢で写真を撮り続けます。

美醜の差こそあれ多くの人を収容する建造物は、それが存在するためには厳密な構造計算がなされているはずです。それは水が凍るときに分子間力で厳密に分子の位置が決定されるのと同じです。もし雪の結晶が美しいのであれば、同じようにどんな没個性のビルディングですら美しさを内包しているかもしれない、と考えても不思議ではないでしょう。

そして見事にその美しさを引き出すことに成功しています。

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濱浦しゅう作品展-霞-kasumi-コニカミノルタギャラリーA

何の予備知識もなくふらりと訪れてみました。会場は作者の簡単な略歴しかなく、入り口のカウンター付近にいた女性(それも知的な感じの美人)を拝見して、女性の作家なのだろうというぐらいのことしかわかりませんでした。

印象に残る作品があります。浴衣姿の女性の写真です。ちょうどその女性の髪越しに打ち上げ花火が光っています。まるでそれは女性のかんざしのようです。または犬の写真。でもよく見るとその犬の鼻のあたりにひび割れがあります。どうやらそれはオオカミの剥製らしいことがわかります。猫の写真もあります。コンクリートの壁に丸まって日向ぼっこをしています。壁際には何かの立て看板があり、その影がコンクリートの壁まで伸びていて、その形は十字架です。あるいは窓からの風景。ガラスに結露した水滴越しにはアパートのような建物がぼんやりと移っています。その窓ガラスを汚すような黒いしみ。水滴というよりはガラスから浮き出た水泡のようなこのしみはいったい何なのか? よく見てもわかりません。

これらの幻想的な写真は、全て銀塩、モノクロの写真です。粒子の粗いアンダー気味の写真は今の風景を撮っているようで、かつてあった風景、かつて見た風景を、時間を遡りながら撮っているように思えます。

「霞」という題名通り、霞に澱み始めた在りし日のイメージ、心象風景を何とか捕らえようとしていることがわかります。それを再生するために、例えば多重露光のような安易な技巧を弄しているように見えます。しかしながらその多重露光と思わせる写真について言えば、窓ガラス越しに撮った写真であり、反射光がガラスに映り込んだのだということわかります。つまり安易なテクニックは排し、写実という意味で一番ベーシックなフォーマットの撮影法に従っています。

フィルムに露光し、印画紙に焼き付けるという行為というのは、結局のところ現実に対する明喩にすぎないのかも知れません。山を撮れば、あたかも山のように写るわけですし、海を撮れば海のように撮れるわけです。さらにこの作者は言わば下絵とも言うべき明喩的な写実に対して、暗喩としての心象風景のイメージを重層的に重ね合わせていきます。下絵をなるべく写実的に描かなければ、上塗りの部分も生きてこないに違いないでしょう。

つまりこの作家はイメージの重ね塗りというべき作為に極めて意識的であるといえます。職人のような作業の丁寧さ、律儀さ、そして確実さにより心象風景としてイメージを浮かび上がらせようと試みます。そうしてその翳りのある記憶が内面的な美しさを保ちつつ、ゼラチンペーパーの上に蘇らすことに成功しました。

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2009年2月 8日 (日)

織田健太郎作品展-confrontations FOTO PREMIO-コニカミノルタプラザ ギャラリーB

私は駅から会社まで歩いて十分ほどの距離、地下街を抜けるのが一番の近道ですが、雨の日以外はほとんど通らないようにしています。朝の地下街は殺風景で、行き交う人の気の重さが狭い空間の中で増幅され、共鳴されるようで気が滅入るからです。

この作者はそのウンザリするような「往来」に着目し、ユニークな方法でその往来の人々の表情を撮り続けました。

私鉄沿線の駅、それも都心からそれほど遠くない駅、商店や家が密集しているような駅ですら、その細い道を縫うようにしてバスが走っていたりします。ほとんど軒を接するようにしてバスがすり抜けていく光景はそんなに驚くようなことではありません。そしてこの写真家は、ギリギリまで接触する人とバスに注目しました。

バスの車窓からのスナップ写真、というのはつい最近見た高梨豊の近作でもありました。

確かにバスに乗るということにおいては似ています。しかしながら目指すものは違っています。この作者の関心はただ一つ、人の表情です。彼はバスに乗り車窓から至近距離にいる往来の人々の表情を撮りました。この車窓というのが絶妙で、「上から目線」なのですが、それゆえに通りすがりの人と視線を合わすことなく、その人の表情を撮ることができます。

当たり前かもしれませんが、人の表情を撮る方法というのは二つあります。一つは写真を撮ることを被写体となる人に明示することです。そしてもう一つは明示しないで撮ることです。明示的に写真を撮る場合、人々は表情を作ります。それは鎧を着ることに他ならず、生身の表情は失われてしまうだろうと思われます。

人の生身の表情というのはどういう表情なのか、そのために非明示的にシャッターを押すというのも写真家であれば当然の欲求だと思います。この写真家は後者の方法を選びます。

ただし往来の人たちはおしなべて無愛想に見え、ウンザリしているような、これからのことに何となく不安を抱いているように見えます。職場に向かうのか、学校に向かうのか、それとも家に帰るのか、買い物に出かけるのか、人に会いにいくのか、行き交う人々の内面は個人それぞれで画一的とは思えませんが、外見からうかがい知ることができない、ということがわかります。

たぶんそんなものだろうな、と妙に納得したりするのです。おそらく私自身、彼の写真の被写体になっても不思議ではなく、今後もそうやって往来を歩き続けます。往来というものがどんどん無機質になっていき、地下通路化していうという現象が確かにあるかもしれません。けれどもこの写真家の方法論なのか、都市という現在なのかはわかりませんが、感じるのはある種の徒労感です。写真に向かってご苦労様と言いたくなりますが、それはこの写真家に対してなのか、それともこの写真に写っている人たちなのか、たぶん両方なのでしょう。

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2009年2月 2日 (月)

桑原久美子写真展-いき-新宿ニコンサロン Juna21

私が始めて一眼レフのカメラを手にしたときの感動と失望は今でも鮮明に覚えています。ファインダーを覗き、シャッターを押すと、甲高いようで重々しい、腹に響くようなそして官能を微かにくすぐるようなシャッター音が響き、レフ版が跳ね上がるその一瞬、ファインダーは暗闇に包まれます。それはまさに自分の見ている風景を寸分たがわずフィルムが感光する瞬間であり、自分の見ているその風景をフィルムの感光面にそのイメージを譲る瞬間です。自分の見ている風景をそのまま写しこむために設計された最高の機械であることが実感できるのです。

でも出来上がった写真を見てみると、自分の記憶の風景とあまりにかけ離れていることにがっかりさせられるのです。なぜなのでしょうか。写真の技術がないからと言えばそれまでですが、それにしてもあまりに違いすぎる。おそらく写真に写されている風景が本当で、私の主観が何かを歪めているだけだと考えざるを得ないとしても、その差について釈然としないのです。

だから自分の見えているはずの風景をそのまま、写真に写すことのできるところはないか? そんな風に考えたりします。街の風景を撮って見ようと思います。けれども自分の思っている風景とフィルムに感光する風景の落差が広がっていくばかり、次第に何を撮っていいのかさっぱりわけがわからなくなるのです。

街の風景など無差別に撮っていいわけではなく、カメラを持って街をうろつくこと自体、半分は後ろめたい行為であるわけで、いい風景だからといっていつもいつもシャッターが切れるものではありません。下手をすれば断りもなく写真を撮ったと、怒られる可能性もあるからです。

この写真展は街の何気ない風景を撮ったものです。それは本当に何気なくて、何かの意味があるのだろうか考えてみてもわかりません。そんな風に写真を眺めていて、ふと浮かんでくるのは上に述べたような初めてカメラを構えてみたころの昔の自分です。

この若い作家はいい意味で素人のような含羞があることです。街にちょっと出てみればあふれるほどいい風景はあるに違いありません。でも全部それを撮ることができるわけではありません。風景を我が物とするわくわくする感じとちょっと尻込みする感じが入り混じったものが写真に現れているように思えるのです。

この写真家はこの感性を持ち続けるのか、それとも大成してずうずうしく写真を撮ってしまうようになるのか。そんな風になってほしくないような気がします。

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