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2009年3月27日 (金)

野村佐紀子写真展-もうひとつの黒闇展-BLDギャラリー

ギャラリーを回るようになって半年足らず、そこで開催される写真展のテーマは多彩ですが、あまり正面から取り上げられない、欠けているものが一つあるなぁと思っていました。それはエロチシズムというテーマだと思います。

まさかとは思いますが、ギャラリー側に倫理規制があるのでしょうか。考えられるとしたらエロチシズムが写真のテーマとなり得ない時代なのかもしれません。私が集中的に写真を見出してそれほど日が経っているわけでもないし、全てを見尽くしているわけではないので、はっきりとしたことは言えませんが。

彼女の「夜間飛行」などの写真集をみるにつけ、是非とも実物を見たいと思うようになっていました。そのテーマに真っ向勝負しているような気がしたからです。

作品展の題名は「もうひとつの黒闇」です。私の電子辞書(広辞苑第五版)で言葉を引いても「黒闇」という単語は出てきません。作者の造語なのでしょうか、ちょっと引っかかりのある題名です。

展示されている作品は全てモノクロ写真です。白眉と言えるのは会場の奥の壁面に並べられた写真でしょう。ソラリゼーションといえばいいのでしょうか、遠目から見ると何も写っていない黒い印画紙が飾られているだけのように見えます。だから近づいて目をこらさなければなりません。闇の中から被写体の輪郭が仄かに浮かび上がってきます。正直言ってあまり見やすい写真ではありません。裸体の写真があります。裸体の主は男なのか、女なのか、キスをしているのは男同士なのか、手探りしても届かないもどかしさがあります。

彼女の写真を語るのに象徴的な一枚があります。ビルの谷間からの写真です。明け方なのか夕暮れなのか、何羽かの鳥が明るい空に向かって飛び立っています。彼女の視点の位置は暗闇です。その鳥はカラスなのでしょうか、闇を抱えたまま明るい空を闇を覆い尽くすために飛び立っているようです。

つまり寝室の若い男性や女性の裸体写真に始まり、風景写真、様々な写真の共通する視点が次第に明らかになっていきます。つまり撮影者自身が闇にいること、闇の視点からの撮影されたものであります。

現代、特に都会に暮らしていると闇というものを知る機会がほとんどありません。たいていの場合手の届くところにスイッチがあり、すぐに灯りを手に入れることができます。為す術もなく、ただうずくまって朝が来るまで待つという状況は余程の事故に遭遇した以外には考えられないのです。

では闇が当たり前だった時代に何を考えて朝まで過ごしたのか?  それとも襲われることに怯えていたのか、あるいは獲物を得るために欲望をかき立てていたのか? 漆黒の闇の中で今はすっかり失ってしまった、剥き出しの獣性を抱えていたのでしょう。

おそらくエロチシズムを作品として取り上げようとしたら、被写体のみがそれを帯びているというだけでは成立しないように思えます。被写体として存在するエロチシズムに対して、形而上なのか、形而下なのか、撮影者がそれに対抗するもの、カウンターパートを持ち合わせていないと成立しえないのです。撮影者は晒された被写体と同じだけの「何か」を晒されなければならないのです。

エロチシズムというのが作品として成立しないというのが状況にあるとしたら、それは華やかに見えるフロントエンドのエロチシズムに対して、対抗すべきバックエンドとしての撮影者の「何か」が疲弊するか、荒廃しているか、あるいは手詰まりの情況に陥っているのではないかと思えてしまうのです。

彼女の作品が今の時代に輝きを持つのは、そのカウンターパートとしてのものをしっかりと抱えてているからにほかなりません。

黒闇。この作品のエロチシズムの根源があります。

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2009年3月17日 (火)

臼田 健二写真展-Water Way-銀座ニコンサロン

北海道東川町在住の写真家の作品展です。彼が住む町を舞台としています。

北海道ですから自然に囲まれ、被写体には事欠かないと思われます。しかしながらこの作家は少しひねくれていて、モノクロで撮られた風景はあまり北海道らしくはありません。何故ならば彼が固執したのはただ一つ、稲作地帯らしきその町に流れる用水路です。

地方の公共事業ということで手厚い予算がついたのか、用水路と言ってもちょっとした川と言っていいほどの大きさの水路もあります。さらにそれらはコンクリートで造られた単調なものかと思うと、堰があったり滝であったり、様々な構築物を経て水は流れていることがわかります。

その水が流れる様をスローシャッターで撮っています。もちろんこの技法は目新しいものではありません。瞬時としてとどまることを知らない水の流れを、長時間露光することにより、非現実な世界が写しだされることになります。

水の流れは例えるならば、コンクリートで固めた川床から吹き出す熱く熱せられたロウのようにも、急流でうねる水面も厚く覆われたゼラチンのように見えてきます。

おそらく水利という実利面以上のものをその用水路に見いだされたことはないのでしょう。ここに作者の視点あります。それが被写体としてなりうることを発見したという、ワクワク感が伝わってくるような気がします。

それは子供の頃、配材置き場や集会所の床下にちょっとした空間を見つけて秘密基地と読んだ子供の頃のワクワクした感じと似ているような気がします。 ちょっとした発見と子供の頃に抱いたような冒険心。それがこの写真の楽しさです。

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2009年3月15日 (日)

本城直季写真展ーここからはじまるまち Scripted Las Vegasーエプソンイメージングギャラリーエプサイト1

このギャラリーは1と2が分かれていて、1の方は比較的有名な写真家が旧作をデジタルプリントするというイメージが私には強いですが、今回は題名に”新作写真展”とあるように、撮り下ろしということになります。

本城直季は写真集「スモール・プラネット」で話題を呼んだ写真家です。その独特撮影手法をそのまま、舞台を日本からアメリカのラス・ヴェガスに移しました。

まず人工湖フーバーダムの遠景からはじまります。それから山肌を引っかくようにして工事を進めるハイウェイがあり、造成地、高層ビルが蝟集する都市、飛行場を経て、広大な建売住宅(プール付き)の遠景にたどり着くことになります。

それはあたかも歴史の旅であり、都市の形成過程を俯瞰するかのようです。実際ラス・ベガスは砂漠の中の都市であり、フーバーダムの完成によって水を引き込むことにより、街を造ることができたわけです。

幸いなことにラス・ベガスという都市は未だに開発が続けられているようで、その都市の多彩な姿を撮り続ければ、歴史絵巻ができるということになります。たとえは悪いかもしれませんが、都市を作り続けていくシム・シティーと言うコンピューター・ゲームのようでもあります。

作者の撮影技法については、今更私があれこれいうべきものではないかもしれません。アオリと呼ばれるテクニックだそうで、光軸をフィルム面からずらして撮ることを特徴とします。できた写真というのは中央部のみ焦点が合っていて、周辺部はぼけてしまいます。つまり焦点の合った部分の写実とまわりのボケの部分との対照を際だたせることにより、遠近感の喪失、ディティールの不自然な際だちなど、極めて計算された錯覚がそこに現れます。そして彼の撮る風景が実写にも関わらず、ジオラマのように見えてきます。

それは写真機の描写能力について、その可能性と限界の境界線を知り抜いた作者が、巧みにその境界を使いこなすことによって得られるマジックと言っていいでしょう。デフォルメされたランドスケープはファンタジーの世界にも見えるし、白日夢のようにも見えます。あるいは巨大な構築物を作り続けることに代表される人間の営為というものの、ある種の馬鹿々々しさ、滑稽さが浮き彫りになってくるようです。

ただし今回に限って言えばラス・ベガスは日本より広すぎました。そして巨大ゆえの単調さが目立ってしまい、被写体としてそれほど魅力的だったかどうか? アメリカの風景は日本ほど箱庭的ではない、というような気がします。

最後にこれからこの展覧会を訪れる方に一言。このギャラリーは入り口が三カ所ありますが、正面(動く歩道がある地下道の反対側、ビルのエレベーター側)から入ることをお薦めします。そうでないとこの写真展の意味が伝わらりません。

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2009年3月 7日 (土)

高木松寿写真展-「影の陰」Shade in Shadows-キャノンギャラリー銀座

会場を訪れて何故か突然思い出したことがあります。

子供の頃の話です。私にとって電車に乗るのは楽しみでした。席に着くやいなや、くるりと後ろ向きになります。隣の人の洋服を汚すからと母親に靴を脱がされ、そのまま背もたれにしがみついて車窓の風景を見ていました。電車からの風景はどんなに単調だったとしても見飽きることはありませんでした。その頃の影響か、今での新幹線や飛行機に乗るときも必ず窓側を予約します。もっとも最近電車に乗っても一生懸命風景を見ている子供なんてほとんど見なくなりましたが。

一枚の写真があります。会場の一番奥、大きな写真です。サーキットか、テストコースか、センターラインとガードレールのみが写された写真。走り続ける車の中から撮ったかのような疾走感があります。

さらにいくつかの子供の頃を思い出します。父親の自慢の車に乗せられて確か浅間山あたりをドライブしたこと。おとなしくしていなさいと怒られながらも、恐る恐る窓から覗いた風景。それは火山岩が転がっている荒涼とした景色の記憶です。

写真は全てモノクロです。それは夜の風景なのか、昼間の風景で光量を落として撮ったのか、たぶん後者の写真が多いのではないかと思います。雲、海、センターライン、テトラポッド、非現実的といっていい、光の当たり方です。奇妙なそして、計算しつくされたコントラストから浮かび上がってくるのは、見る人の網膜を通り越して、記憶という意識に直接刺激するかのようです。

どの写真も懐かしい感じがします。思い出せるような思い出せないようなあやふやな感じ。実際の風景なのか、何かの古いモノクロ映画の印象的な一シーンなのか。実際に見たわけではないけれど、この風景を見たかったと、あるいは見たことがある、と心をじわりとそしてやさしく熱せられている感じです。

しかしながら写真は1973年から1985年までに撮られたとあり、海外の風景ですから私が懐かしいと感じるのはおかしいことです。でも忘れかけていた郷愁のようなものが喚起されてしまうのはどうしてなのでしょうか。

すべてを忘れてしまうことは快感のような気がします。世の中には忘れていけないことは多すぎるし、逆に忘れたくても忘れられないことも多すぎるからです。ただ忘れることというのは、コンピュータの画面をシャットダウンするように一瞬で消え去るのではないようです。ゆっくりと時間をかけて朽ちるようにして消えていくのでしょう。イメージの中から色が消え、背後にあったディティールを失い、輪郭がぼやけ、そしてゆっくりと暗黒の中に溶け込んでいくのでしょう。

この写真の心地良さは、決して忘れたくないけれどそれでもやがては消えてしまう記憶の最後の断片として撮られていることに由来するような気がするのです。イメージが消え、無意識の彼方に追いやられてしまう、その一瞬の燐光のような輝きにシンクロナイズしているかのようです。

それは色のない夢を見るのと似ているような気がします。

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2009年3月 1日 (日)

遠藤正太写真展-光源をもとめて-新宿ニコンサロン

人々が集う景勝地の風景をモノクロで撮った写真です。題名は「光源を求めて」。ここで作者は「光源」という言葉を普通とは少し違う意味で使っています。まず「光」という言葉、どうやら「観光」という言葉で使われる「光」と同じであるようです。ちなみに漢和辞典で「光」を引くと、景色という意味があるのを知りました。風光明媚の「光」と同じです。

選ばれた撮影地は海水浴場であったり、桜の名所であったり、ロックコンサート会場だったりします。そこに集う人たちを広角レンズで撮影しています。従ってその人たちの表情は見えません。表情が消し去られてしまえば同時にそこに集う各個人の動機は写真の上から消し去られてしまいます。つまりそこにこの作者の群衆に対する醒めた視線があるわけで、作者は個人nの集合体に関する写真を撮っていることになります。

確かに写真を見ていくうちに何故観光地と称されるところに人が集うのか? という答えがあるようでないような疑問が生じてきます。

例えば群れを作らざるを得ないヒトの生物学的習性とか、ハレの場を形成する共同体の社会学的、民俗学的研究といったところなのでしょう。

その一方で携帯電話やインターネットといったコミュニケーションツールの爆発的普及があります。それらの発達とは、取引をしたり情報交換する場を実際に人と人が集まって行うことは非効率であり、コストがかかるということで極力排除し、サイバー上にその場を再構築しようとしてきたわけです。

劇的に変わりつつある現代の目から見ると、観光地に集う人たちはある種グロテスクにも見えたりするし、わざわざ遠くまで出かけていって行列しているその苦行に「ご苦労さま」と声をかけたくってしまうようなユーモアに近いものを感じたりします。

おそらくこの作者は周りの景色など消し去って、人々だけ抽出したかったのではないかと思ってしまいます。つまり個人nの集合体についてです。それが題名の「光源をもとめて」の「源」の部分です。

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