植田修子写真展-FOTO PREMIO 私の東京生活-コニカミノルタプラザ ギャラリーA
私自身東京生まれですが、数年間地方都市で暮らしていたことがあります。その頃、出来の悪い低予算の映画、つまりピンク映画と呼ばれる映画が妙に好きになり、土曜の夜を映画館で過ごしていたことがあります。
ステレオタイプの筋、あまり魅力的とは言えない出演者、そんなことはあまり意味がなく(むしろつまらないドラマなどない方がいい)、その映画の合間に挿入される風景が大好きでした。江古田あたりの路地裏の風景だったり、新宿、靖国通りのネオンだったり、低予算の映画はセットなど組めるわけもなく、そのカメラの視線はちょうど私が見るだろう視線に近かったからかもしれません。きちんと演出された映画では逆に抑制されてしまう剥き出しの風景が、安っぽい映画ゆえに広がっているような気がしたのです。
余りにパーソナル過ぎて、誰にも伝え切れる自信がないゆえに、却って胸が締め付けられるような懐かしさがこみ上げてくるのを探していたように思えます。
今回の写真展は、岡山出身という作者が東京に出てきてから撮りためた写真です。写真には番号が振られてあり、現在の彼女の自宅からの距離が写真の題名になっています。
会場に行くと小さな紙が置かれています。その紙には同心円が描かれていて、写真が撮られた場所の座標がレーダーチャートのように描かれていています。
その距離は数キロの自宅周辺から数百キロまで、その範囲は広範に渡ります。
ただその距離に何の関係があるのかはあまりはっきりしないような気がします。質素な造りの民家の玄関先に揃えられたスリッパ、あるいは山中にぽつんとあるスチール製の物置、キャベツ畑、脈絡があるようでない風景写真が並んでいます。
その写真には極めて濃厚なパーソナルな意味合いが漂ってきます。その中身、つまり作者自身の心象風景の詳細については決して明らかにされません。提示できるのはその風景がある座標だけです。
悪意を持って言えば、説明不能な風景の羅列をされただけでは見る側にとって迷惑なだけだ、と言うことができます。
例えば大人になって、自分が観ることのできる風景が自宅の周りだけだったのが、自転車に乗れるようになったり、一人で電車に乗って遠くまで行けるようになったりして、観ることのできる風景の数が飛躍的に増えたというのは実感できることです。さらに加えて写真という表現を手に入れることにより、世界的な広がりを持って、他の人たちと共有できるのだ、という手応え、その喜び、それらがこれらの作品を支えているのかもしれません。
| 固定リンク
« 近藤善照写真展-NIGHT BREATH II-エプソンイメージングギャラリーエプサイト ギャラリー2 | トップページ | 大川孝写真展-FOTO PREMIO 「SENDAI」-コニカミノルタプラザ ギャラリーB »


コメント