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2009年4月29日 (水)

大川孝写真展-FOTO PREMIO 「SENDAI」-コニカミノルタプラザ ギャラリーB

「SENDAI」は日本の地方都市、題名の通り仙台の街中に佇む人たちのスナップ写真です。

この作家は1986年生まれの若い作家であり、東北芸術工科大学在学中とのことです。

スナップ写真と言っても、どの作品も撮る側も撮られる側も計算され尽くしたポートレート写真のような完成度であり、古きモノクロ映画、ヌーベルバーグ映画の一シーンのようです。

特に女性の写真が極めて印象的です。全てが美人で若いわけでもありませんし、子供も登場してきます。それでもそこに映っている彼女たちは極めて魅力的です。一言でいうとどの女性はとってもカッコ良く写っています。

このカッコ良さというのは、普遍性であることと思います。つまり被写体として選ばれた舞台は「SENDAI」という限定的な地方都市ですが、それは「TOKYO」でも「HONG KONG」でも「SHANGHAI」でもいい、無国籍な魅力と言い換えができるかもしれません。

会場であるコニカミノルタプラザがある新宿は、カメラ量販店の「さくらや」の跡に「ユニクロ」が完成し、その開店の宣伝で外人女性をモデルとしたポスターが溢れております。私は商業的な写真の良し悪しについて、あまりよくわかりませんが、街に溢れるどんなディスプレーよりもはるかに素敵な写真であることは確かです。

この作家の手にかかればどんな人だってポスターの題材となるのではないかと思うほど、手腕は確かであると思います。

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2009年4月26日 (日)

植田修子写真展-FOTO PREMIO 私の東京生活-コニカミノルタプラザ ギャラリーA

私自身東京生まれですが、数年間地方都市で暮らしていたことがあります。その頃、出来の悪い低予算の映画、つまりピンク映画と呼ばれる映画が妙に好きになり、土曜の夜を映画館で過ごしていたことがあります。

ステレオタイプの筋、あまり魅力的とは言えない出演者、そんなことはあまり意味がなく(むしろつまらないドラマなどない方がいい)、その映画の合間に挿入される風景が大好きでした。江古田あたりの路地裏の風景だったり、新宿、靖国通りのネオンだったり、低予算の映画はセットなど組めるわけもなく、そのカメラの視線はちょうど私が見るだろう視線に近かったからかもしれません。きちんと演出された映画では逆に抑制されてしまう剥き出しの風景が、安っぽい映画ゆえに広がっているような気がしたのです。

余りにパーソナル過ぎて、誰にも伝え切れる自信がないゆえに、却って胸が締め付けられるような懐かしさがこみ上げてくるのを探していたように思えます。

今回の写真展は、岡山出身という作者が東京に出てきてから撮りためた写真です。写真には番号が振られてあり、現在の彼女の自宅からの距離が写真の題名になっています。

会場に行くと小さな紙が置かれています。その紙には同心円が描かれていて、写真が撮られた場所の座標がレーダーチャートのように描かれていています。

その距離は数キロの自宅周辺から数百キロまで、その範囲は広範に渡ります。

ただその距離に何の関係があるのかはあまりはっきりしないような気がします。質素な造りの民家の玄関先に揃えられたスリッパ、あるいは山中にぽつんとあるスチール製の物置、キャベツ畑、脈絡があるようでない風景写真が並んでいます。

その写真には極めて濃厚なパーソナルな意味合いが漂ってきます。その中身、つまり作者自身の心象風景の詳細については決して明らかにされません。提示できるのはその風景がある座標だけです。

悪意を持って言えば、説明不能な風景の羅列をされただけでは見る側にとって迷惑なだけだ、と言うことができます。

例えば大人になって、自分が観ることのできる風景が自宅の周りだけだったのが、自転車に乗れるようになったり、一人で電車に乗って遠くまで行けるようになったりして、観ることのできる風景の数が飛躍的に増えたというのは実感できることです。さらに加えて写真という表現を手に入れることにより、世界的な広がりを持って、他の人たちと共有できるのだ、という手応え、その喜び、それらがこれらの作品を支えているのかもしれません。

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2009年4月19日 (日)

近藤善照写真展-NIGHT BREATH II-エプソンイメージングギャラリーエプサイト ギャラリー2

夜の盛り場を題材とした写真展です。荒い粒子のモノクロ写真で、盛り場を行き交う人たちをスナップしています。カメラのアングルは人間の視点の高さではなく、かといって犬や猫の視点の低さでもない、腰のあたりの高さから撮られています。

たぶんノーファインダーで撮られているのか、画面は傾き、ブレています。その隠し撮りの雰囲気は一昔前の写真雑誌に出ていた、芸能人カップルの密会を撮ったスクープ写真のような臨場感があります。

恐らく街を撮ろうとした場合、その街に対してどのように接するのかで、その都会の見え方は全然違います。街の顔役なのか、それとも野良犬なのか、ペントハウスの住人の視線なのか、ホームレスの視点なのか、その街の表情はがらっと変わります。今回の作品は明らかに盛り場に対してアウトサイドの立場にいる人間の視点から撮られています。

ただそれは殺伐とした風景なのかというとそんなことはありません。

東京生まれの私は、上京して都会の風景に目が眩んだというと経験はなく、物心がついた時から都会というものがありました。

それでも思春期を迎えて、突然街の風景が変わって見えるというその瞬間を今でも覚えています。つまり盛り場を支配するある種の欲望についての理解、そしてそのために集まる女性達が突然魅力ある存在に思えてくるその瞬間です。同時にその世界に自分が入っていけるのか、そのめくるめくものを果たして共有することができるのだろうかという絶望的な疎外感が沸いてくるのを感じてました。

これらの作品に登場する女性達は、私がその頃感じたような眩しさに満ちています。彼女らのしなやかな肉体、盛り場の中で「市場価値」ありとされる肉体が、ざらざらとした荒れた画調の中で浮かび上がってきます。けっして肉感的というわけでもなく、かつ退廃的なものとしてでもなく、ある種の憧憬と優しさに満ちた作者の視線で撮られていて、それが魅力的だと言えます。

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2009年4月13日 (月)

山市直佑写真展-アジアン・トゥデイ-ニコンサロンjuna21

9.11というのはつまるところ、イスラム「原理主義」とアメリカを代表される金融「原理主義」との相克だったと思います。戦いはその後も現在まで続いているようにも思え、「金融」側は遮二無二突っ走った結果、サブ・プライム問題で自壊の瀬戸際まで追い込まれてしまいました。

貪欲な彼らはグローバル・スタンダードと言う名の投資ルールを作りあげ、水面化で世界中の原材料を投機の対象とし、経済行為を証券化し、世界各国の経済をリンケージしたわけです。

同時に巨大資本はますます至る所に浸透し、最大消費を家計に強いるために、あるべき中産階級のライフ・スタイルを規定し、その姿に誘導するためのビルボードをずらりと並べ、草刈場であるショッピングモールを作り上げました。

その結果何が起こったのでしょうか? 世界各地のランドスケープの統一化、つまり「郊外」化というべきものが進行しました。

この若い作家はアジア各国(東京・大阪を含む)を訪れ、グローバルな「郊外」化の実態についてフィールド・レポートを行いました。

写真家の視点、あるいは旅行者の視点からみればこれは由々しき問題といえます。この作家の方法論は徹底していて、「郊外」化によって侵食される均質な空間を描き出しました。それはカザフスタンの都市から、東京までアジア各国を蹂躙しつつあるものを暴き出します。昔ながらの風景に画一的な高層ビルが現れるのは、あたかもWTCの亡霊のように思えてしまいます。

振り子が片方に振れれば、もう一方にカウンターパートの力が働くのも不自然ではなく、現在のように共倒れのグローバル・リンケージを経ち切るために、経済・文化のブロック化、ローカル化に向かうかもしれないというのも間違いではないかもしれません。

ただ私たちは極端に振り子が振れてしまった悲劇というものを知っていますし、さらに巨大ショッピングモールが象徴とするものが絶対的に悪かというと、必ずしもそうとも言えないことも知っています。

ちょっと厳しいことを言えば、アジア各国を回らなくても日本全国を回ればこれくらいのことはわかります。田んぼの真ん中、国道沿いに忽然と現れる3千台無料駐車場、シネマコンプレックスつき巨大ショッッピングモールなんてものがいたるところにあったりします。さらに言うならば地方で生活したことがあるものにとって、そのような商業施設が建設され、ユニクロやスターバックスコーヒーが地元にできるのを楽しみにしていたりすることを。

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2009年4月 9日 (木)

神田川義和作品展-曖昧な時間-コニカミノルタプラザギャラリーB

1230万画素のデジタルカメラで撮られ、大型インクジェットプリンターで出力された作品です。人通りの中、三脚を据え、スローシャッターで撮影したとのことで、新宿、池袋、銀座、お台場など東京を代表する盛り場の夜景写真です。

作者の挨拶文によれば、ノーファインダーで取り続けたそうで、構図を狙うというより、そこに映りこむ人たちが醸し出すものを大切にした、ということが書かれています。

都会に溢れる光はLEDに変わっていきます。そのような半導体による発光を捉えるためには半導体素子による画像化がもっともふさわしいと考えるのも腑に落ちる考え方でしょう。

ソリッドステート化された満艦飾の光の洪水と、同じくデジタル化された受光素子との間を、浮遊するかのように人々が通り過ぎます。

スローシャッターで撮られた写真ですから、足速に通り過ぎる人達は薄くぼやけてしまいます。数秒と思われる露出時間の中で、人の流れに澱んだような佇まいの人が、作品の中に一人か二人います。

その人たちは、抱き合ったり、信号待ちをしていたり、携帯電話でメールを確かめたり、あるいは着の身着のままでベンチに寝転んでいる人たちです。

その瞬間、表情を固めている人達の表情は、おそらく偶然に違いなく、そこに留まっていることの意味などないでしょう。作者が選んだデジタル的な舞台と視線に囲まれて、ほんの束の間ですが逃げ場を失って、所在なさげにも、物憂げにも、途方にくれているようにも見えます。さらに言うならば、この作者は敢えてデジタル的手法を使って街行く人を追い込んだとも言えます。

東京の街角を撮る写真は比較的多く見かけますが、敢えて先端技術を積極的に取り込んでその先に見えるものを追い詰めるという作者の手法は斬新だと思います。

いずれにしろ、大判プリント出力の美しさに目を奪われます。デジタル写真による表現の一つの到達点とも言えるでしょう。

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2009年4月 2日 (木)

筬島孝一写真展-記憶の中の今-新宿ニコンサロン

この作品で取り上げられたのは、大分県、都市近郊の兼業農家。その家の雑然とした庭を撮影したものです。その家の主と思われる人たち(多くは老人です)のポートレートも数枚あります。

雑然と置かれたプラスチックのトレイ、ビールケース、発泡スチロールの箱、ポリタンク、マス・プロダクトの流通の過程で生み出された様々な包材が捨てられることなく積み上げられています。

こぎれいにガーデニングなど施している都会の新興住宅地などは、この文明の本質的に抱えている矛盾を巧みに押し隠して、よそよそしさを感じさせるのに対して、懐かしいような、ほっとさせられるような気にさせられます。

前近代のある種合理的とも言える循環型のシステムがまだ残る農村に、突然押し寄せてきた大量消費文明が生み出した様々な消費財を、その文明の矛盾をそのまま溜め込んだような印象の裏庭です。

まさに昭和の風景と言ってもいいですが、紛れもなく現代の風景です。そもそも大量消費文明なんて言葉もほぼ死語に近い言葉と思えるくらい、それが浸透している現在です。それでも今なお残るこの雑然さは、逆に日本社会の健在さが残っているようにすら思えてしまいます。

作品を見ているうちに私はなぜかヘミングウェイの「清潔で明るいところ」という短編小説を思い出していました。自殺し損ねたという老人が馴染みのカフェで延々と粘るのを追い出す同僚の若いウェイターを横目で見ながら、人生は無でしかなく、光と清潔さがあればいいとつぶやく男の話です。

この作品の世界はまさにヘミングウェイの世界から一番遠くにあると思えますが、雑然というよりは混沌とも言っていいほどの空間、小宇宙に安らぎを覚えるというのは、日本的、東洋的ということなのでしょうか。

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