« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »

2009年7月25日 (土)

刑部信人-comic FOTO PREMIO-コニカミノルトプラザ ギャラリーA

写真について文章で説明するには、時として虚しい気になることがありますが、今回の作品展の写真は意味があるかも知れません。(ただし私の拙い文章力で、作者の意図が伝えられるかというとこれは問題かも知れませんが)

渋谷駅ガード下の写真があります。一台のパトカーが停まっています。両側のドアが開け放たれており、そこに数人の警官が殺到しています。何かがあったに違いないのですが、それは分かりません。そしてそこに集まった警官たちのすべて決定的に肝心なことを見逃しているように思えます。パトカーの前方道路脇は生垣になっており、木の脇から白い布で頬冠りした男が様子をうかがっていて、明らかにこの男が怪しい感じです。

次に競馬場での写真です。そこは芝生の広場が広がっており、うらららかな日思い思いに日向ぼっこをしているようです。写真が捕らえたのは芝生に寝転んだ一人の男。一瞬びっくりさせられるのはその男の首がないということです。でもよく見るとその男は首を両肩の間に埋めるようにして居眠りしているだけです。だがその姿はうなだれているようにも見え、場所が場所だけに競馬で大損しているのではないかと考えたりします。ただ男の前には新聞が広げられているのですが、それは普通の新聞であり、ギャンブルに来たわけもなく、ただ日向ぼっこに来たついでに居眠りしてしまっただけのようです。

とあるテーマパークの写真も笑わせます。時代劇をテーマにしているのでしょうか、観客もまばらで休憩所にいる客も多分この程度だろうと、どこかつまらなそうにしています。だが彼らが全く気が付いていないところ、つまり彼らの頭上には二本のロープが張られていて、そこを忍者姿をした男がロープを渡っています。

つまりこの作者は明確です。その写真の構図の中、切り取られた一瞬、ただレンズを向けたその構図だけで浮かび上がる笑いです。実を言うとこのような光景は日常にたくさん潜んでいるかもしれないのですが、そのほとんどは気がつきませんし、気が付いても忘れてしまうものでしょう。一瞬を捕らえるということで、成立する世界というのは極めて写真的であり、一つの威力と言えるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月19日 (日)

王子直紀写真展-牛島-新宿ニコンサロン

鹿児島県鹿児島郡十島村悪石島。本作品展の「牛島」とはこの島と考えて間違いなさそうです。屋久島と奄美大島の間にあるトカラ列島に浮かぶ南国の小さな島で、ポゼ祭りという奇祭が有名で、7月22日、皆既日食の観測に絶好の地であり、テレビクルーを始め島は今まで訪れたことのない人数を迎えるために準備が大変とのことです。

ギャラリーには作品に関する紹介文や作者の略歴が何もないので、写真に写ったものから探さなければなりません。ただ作品の中に「悪石島小・中学校」の校門の写真があるので、そこを探すのは難しいことではありません(ちなみにこの悪石島小中学校のブログが充実していて、日食観測前の様子が描かれています)

写真は全てモノクロです。辺境の島を訪れて、普通に感じるだろう南国の自然の美しさ、豊かさ、そこに住む人達の素朴で人懐こい笑顔、なんてものには明らかに背を向けているです。磯にはいかにも悪石島の由来かと思わせる軽石のようにボツボツ穴のあいた石が転がり、亜熱帯の植物が村を浸食するように迫っているように見える景色です。少なくとも当地の観光協会から推薦が得られるような写真ではありません(もっともそんな写真展であれば私自身あまり食指が動きませんが)。

そこにあるのはどちらかというと濃密な人々の生活の匂いです。重機を動かし、家を建て、裏山の崖の補修をし、墓を掃除する、そんな人々の暮らしです。そんな村の風景で黒牛がいます。そのなんとなく不機嫌そうな佇まいが目を引きます。

作者の視点がなんとなく奇妙です。窮屈という訳ではなく、なんとなく限定されているような、作者自身どのような方法論で作品に接しようとしているのかちょっとわかりません。島の風景をある程度距離を置いてスナップしているわけでもないし、村人の中に入り込んだルポルタージュ的な視点でもない、ちょうどその中間という感じです。それが中途半端とは言いませんが、その立ち位置にある種のもどかしさを感じてしまうというのが私の率直な感想です。

結局ニコンサロンのサイトにある紹介文を参考にせざるを得ませんでした。作者はどちらかというと都市の写真を得意としていること、そして八十ミリという”中途半端な”レンズ一本を持ち込んで島に乗り込んだということ。村の人達の仕事を手伝ったりしながら写真を撮りためたということ。そして乗り込んだ島も悪石島ではなく同じトカラ列島の平島であること。そんなことが書いてあります。

つまりこの作家の立ち位置という問題だと思います。都会という存在はある意味無防備で、レンズさえ向ければ被写体は向こう側から飛び込んでくるのでしょう。都会では充分と言える八十ミリレンズも辺境の島では息苦しさすら感じてしまう画角の狭さとなります。しかしながら時代を写すために共通の視点も必要であることも事実であり、都会を写す方法論として確立したその手法がどこまで通用するのか、その実験のための苦闘の記録と言えるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年7月12日 (日)

金瀬胖写真展-千葉 銀色の街-コニカミノルタプラザ ギャラリーA

ここ数年の千葉の風景を銀塩フィルムを使ったモノクロの写真です。千葉と言っても作者が住む習志野から船橋、富津あたり、撮影されたのは古くて2000年、多くは去年、一昨年あたりに撮られています。

この写真の舞台となるJR津田沼駅あたり、ユザワヤのビルの裏側にある畑の風景は私にもなじみがあるものです。

作品を一通り見て浮かび上がってくる感想は、日本の街並みというのは、この数年で酷く傷ついてしまったのだなぁ ということです。

その思いを強く持った写真があります。たぶん私鉄沿線の駅、急行が停まるかどうかの駅の風景です。それほど広くはないロータリー乗用車が一台を除いてはがらんとしていて、アスファルトのひび割れが痛々しく広がっています。ロータリーの真ん中にはクリスマスツリーがあり、夜になればそれなりに綺麗に輝くのでしょうが、昼間ではわびしげです。駅前広場を囲む建物も古びて見え、「エイブル」という不動産屋の看板でかろうじてこれが2000年代の写真であることが察せられ、それがなければ80年代と言われても分からないでしょう。

言い悪いとして別にしても、おそらくこの十数年で都会の風景は劇的に様変わりしているはずと思いこんでいたのです。ところがこの一枚の写真はある意味驚きでした。

非効率的、老朽化あるいは単に古くさいとか、どんな理由はわかりませんが、その時代で否定された風景を塗り固めていたものが、この数年でほろりとはげ落ちて昔の姿が露呈してきている、そんな印象です。

この作品の舞台となった一帯は短期間で二種類の荒波を受けています。一つはバブル期を挟んで断続的に続く開発による破壊、二つ目はバブル崩壊や昨今の不況による衰退。おそらく時間をおかないで破壊と衰退の過程を繰り返した街は、ノスタルジーなど抱きようのない痛ましさだけが残されています。

作者の言葉を引用すれば、「消滅の際にあるものが酸化した銀色の結晶のように見える」とのことです。これは即ち銀塩写真のことです。うっすらと皮膜し、堆積していく見えない錆のようなものを、乳剤に潜ませた銀粒子一つ一つに呼応させ、X線写真のようにその街の痛みを結像させていく、この作者にとって作品とはその過程に他なりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月 5日 (日)

津乗健太写真展-楽しくなさそうにはしていない猫-船橋競馬場の猫たち-コニカミノルタプラザギャラリーA

作者は現在船橋競馬場の厩舎員として働いているとのことです。写真家志望の若い男性がどんな経緯で厩舎に勤めるようになったのかは不明です。ただ今回と同名の写真展を過去同じギャラリーで開いているそうで、最初は汚くて臭くて嫌だと思っていた厩舎暮らしが、今ではそれなりに愛着が湧いて来たということが挨拶文に書かれています。

厩舎という閉ざされた不思議な世界の風景が最初に興味を引きます。厩舎と聞いて、閉鎖的で旧態然としていて、仕事だって恐らく単調な肉体労働の連続で、よっぽどの馬好きでなければ勤まらないだろうなということが、私の中のイメージとして浮かんできます。

そんなイメージを半ば裏切らないような風景が広がっています。ちょっと前に流行った昭和レトロの世界に近いのかも知れません。厩舎員の宿舎なのでしょうか、トタン屋根の二階建ての家は普通に民家のようにしか見えず、二階のベランダには洗濯物が干してあったりします。ただ生活感が漂う普通の家と違うのは、その家の壁に区画を示す英数字が大書してあること、そして家の目の前の道が、アスファルトの道ではなく、未舗装のダートであるということです。

そこにいる猫は飼い猫なのか、馬の餌のおこぼれを求めて集まってくる野良猫なのかは分かりません。人に懐いているのかそうでないのか、厩舎の人間も猫たちをかわいがっているのか、それとも害悪を厩舎に与えることがないということで放置しているのかがわかりません。その猫と人間のないようであるような距離感が、妙な懐かしさを呼び起こします。

そして猫の後ろ姿を写す作者の視点は、まさに猫の視点はと言っていいでしょう。厩舎という社会に自らの存在をそれなりに認められてはいるだろうけれど、それでもまだ部外者としての違和感は拭いきれない、そんな立場の作者の視線と重なります。そしてその視点は少しずつ写真家の視点に近づいている、という作者自身の手応えが伝わってきます。「楽しくなさそうにはしていない」というのはまさしく作者自身です。

個人的な嗜好を言わせて貰うと、私は猫とか犬とかを被写体とした写真展というのは苦手です。ですからギャラリーのある高野ビルの入り口で写真展の題名を見た時、正直あまり食指が動きませんでした。ただ私が想像していたような「猫可愛がり」の写真ではないことは確かです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »